神はなぜ人を裁くのか。
神は人を自由意思を持つものとしてお造りになりました。その自由意思により、人は神に従うか、神よりも自分の考えを基に生きるか(即ち、自分を神の立場にするか)、どちらをも自由に選択できる存在とされました。
もちろん、神はご自分に従うようになることを望んでおられますが、自由意思を与えている以上、それを強制することはありません。この人間に50年か100年か、ある一定の期間生きる命を与えていますが、その命の間に、神に従うか、自分を神の立場にするかを神は見ておられるわけです。
自由には責任が伴います。その人が最終的にどちらにするか決断しなければなりません。その決断により、神の子として神の国(天国)に受け入れるか受け入れないかをお決めになります。人が神に従う(キリストを信仰する)ときは、大体が明確な決断となります。大体は洗礼(バプテスマ)によって表明されます。
しかし、神に従わないときは、大体が曖昧であり、この世の生活に気を取られていて、いつの間にか過ぎているものです。自らは神に反抗しているとの意識はほとんどないのが普通です。自分の欲望追及に忙しく、神信仰のことをあまり考慮しません。しかし結局は、自分中心で神を認めていません。
それが神の前でどう判断されるのか。神はそれを、最後の審判で明確に判決します。神に従い、キリストを信仰する者は天国に入れられ、そうでない者は天国を拒否されるほかありません。
このように、天国か地獄か最終的に決められるのが、最後の審判(裁き)です。その時、各自肉体にあってした行為に応じて報いを受けることとされています。悪を行った者は悪しき報いを、善を行った者は良い報いを受けるのです。
人の人生の途中でも時々裁きをされますが、それは主としてその人の生き方への警告です。最終的に滅びることのないよう、憐れみとしての裁きです。また、時には、人々が神の正義をあまりにもないがしろにしたり、神の権威をなめているときには、神の意思と力を多くの人々に知らせるため(示しをつけるため)に、目覚ましい裁きをなさることもあります。
大事なのは、最後の審判(最後の裁き)です。人が神と共に生きたか、神に背いて生きたか、どちらを選んだかを最終的に見究めるための裁きであり、最終的な処遇(天国か地獄か)が決められる裁きです。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(イエス)により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。(使徒の働き17:31)
この裁きの権限は、神が宇宙の主であり、人間の造り主であることに淵源があります。
◇