神の裁きは、罰(ばち)やたたりとどう違うのか。
罰とは、日本の神仏が悪事を犯した人間に下す返報であり、悪事の報いです。たたりとは、神仏の意思に逆らうために受ける罰です。罰とたたりはよく似ていますが、たたりには物の怪(け)などから受ける災いを意味する場合もあります。
いずれにせよ、気まぐれ的に不可解な罰の当て方、たたり方をするように見えるので、人間の側ではどのように関わっていいのか分からないのが実情です。そうなると、その神仏にはあまり近寄らぬ方が無難だと考え、「さわらぬ神にたたりなし」という言い方になります。
いったん罰やたたりに遭うと、どう考えていいか分からない。それに不服であってもどうしようもない。それっきりで、後は知らん顔で何のフォローもない。このような神仏に向き合って考えることは容易ではありません。人々は、ただ恐ろしいものと受け止めるほかありません。
これに対し、聖書の神は、不合理な罰やたたりはしません。
罰は原則として終わりの時に、それまでのすべての生き方を見て正しく裁きます。しかし、その人が滅びに向かっているとき、神の憐れみで滅びにゆかないようにとの意味で裁くことがあります。また、何か悔い改めた方がいいときは、人生の途中でも警告の意味で裁くことがあります。そんな時、大体は自分の生き方、したことについて振り返れば、それなりに心当たりを示されます。
さらに例外的に、ある人、ある集団があまりにも神を舐めるときは、しめしをつけるため、人間社会が神をあなどることがないよう、生きている間に裁くし、罰を加えることもあるようです。
ダビデ王はもともと一介の羊飼いにすぎなかったのですが、神の選びで王にまで引き上げられました。ところがある時、心の緩みからか、忠実な部下の妻と姦淫を犯し、その部下を謀殺してしまいました。このために神の裁きに遭い、自分の子同士が殺し合って残った子から謀反を起こされ、国は内乱に陥り、彼は都落ちしなければならないようになりました。
彼は、それが神からの裁きであることに気が付き、徹底して悔い改め、耐え、神の下にひれ伏しました。そのため、彼の罪は赦(ゆる)され、また元の王位に戻されました。
神の裁きは理由があり、合理的です。つまり正しい。しかし、時には人間が、当座はそれを理解できないこともあります。そうした時でも、神を信じて御心を求めてゆけば、長い間にそれがふに落ち、受け入れることができるようになる。時には、それに感謝できるようにもなる。そのようなものです。
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