神は人間の言動をすべて考慮して裁くのか。
神は全知の能力により、一人一人が歩んできた全人生を過去も現在も知っておられ、かつ記録しておられます。あたかも、現代のビデオテープのごとく、きちんと再現できるよう、忠実に記録されているようです。
人が誰かのために人知れずガマンしたことも、人知れず払った犠牲のことも、神様のために人知れずしたことも、しなかったことも、神はすべて知っておられ、また記録しておられるようです。もちろん、密かにした汚れた事や悪も、心の中で思い描いた憎しみや怒り、悪意、恥ずべき思いや言動も、です。
主の前で、記憶の書がしるされた。(マラキ3:16)
これらは、主の裁きの時に活用されます。神の裁きは気まぐれ的ではなく、場当たり的でもありません。きちんとその人生の言動の全体を見てなされます。神のもとにある正確な記録に基づき相応の罰、相応の果報(良い報い)を与えるのです。
私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる。(2コリント5:10)
しかし、キリストの十字架の死を自分の罪の身代わりだと信じる者は、罰が済んだものとして扱われ、従って“相応の罰”はなくなり、天の御国へ入れられるわけです。キリスト信仰の有り難さはここにおいて極まるのです。
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