信じたいが、急がない。今すぐでなくてもいいではないか。極端に言えば、横の十字架で信仰告白した犯罪人のように、死の間際でいいではないか。
確かに、イエス・キリストの十字架の横で十字架にかけられた人は、いまわの時にイエスへの信仰を告白したので、パラダイスに行く者とされました。パラダイス経由で天国へ行くことは間違いありません。
問題は、そううまく死の間際に信仰を告白できるか、ということです。死はいつ臨むか、どのような状況で臨むか、誰にも分かりません。その間際に意識があるかどうかも分かりません。
さらに、人間は年齢を重ねるにつれ、世俗的考えがしっかりと取り巻き、思考が硬直して、新しい見方や新しい価値観を取り入れることが難しくなります。つまり、信仰の決心ができにくくなるわけです。
私が今まで接した人で「今でなくていい」と語った人で、後に信仰に入った人はいません。だから信仰は、精神が柔軟なうちに決心するのに限るといわれています。いや、聖書自体もそう語っています。
あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。(伝道者の書12:1)
キリストを「信じてもいいかな」と考えるときに、すぐに決心するに限るのです。そこで決心すると、物事がよく見えてきます。知恵が与えられ、平安や喜び、希望が生まれ、決心は強くされ、確信へと成熟していくのです。
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