聖書に「怒ってはならない」「憎んではならない」「争ってはならない」「高ぶってはならない」といった、してはならない罪の教えがある。これらに共通する行為は「裁いてはならない」である。また聖書には「親切にしなさい」「寛容でありなさい」「小さい者を大切にしなさい」「愛しなさい」といった、なすべき愛の教えがある。それらに共通する行為も、やはり「裁いてはならない」である。なぜなら、こうした愛の教えは、人を裁くということと対立するからだ。つまり「裁いてはならない」という教えが、行いの教えの根底を貫いている。
ならば、そもそも「裁いてはならない」とは、どういう意味なのだろうか。「裁く」という日本語の意味は、善悪を明らかにして判断を下すということだが、聖書は、善悪の判断を下してはならないとでも言うのだろうか。そんなことはない。聖書は善悪を判断し、悪と戦うことを教えている。ならば、「裁いてはならない」とはどういうことを言っているのだろう。
そこで今回のコラムは、「裁いてはならない」の意味について考えてみたい。それに関連し、「神の裁きとは何?」かも考えてみたい。では、人が人を「裁いてはならない」ということの意味から見てみよう。それを知るには、人と人とのつながりがどうなっているのかを先に押さえておく必要がある。人と人とのつながりが分かれば、人が人を「裁いてはならない」という聖書の教えの意味も見えてくる。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【裁いてはならないとは何?】
(1)人と人とのつながり
人は神に似せて造られた。そのために神は、人の「いのち」となる「魂」をご自分の「いのち」で造られた。
神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2:7)
ここでいう「いのちの息」の「いのち」は複数形の単語で、三位一体の神の「いのち」を表している。そして、「いのちの息」の「息」は「魂」とも訳せる言葉で、人の「魂」は神の「いのち」で造られたことを教えている。
つまり、人の「いのち」となる「魂」は神の「いのち」で出来ていて、人と神とは同じ「いのち」で結ばれているということだ。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです」(ヘブル2:11)。それは、人が神(キリスト)の部分であるということであり、「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)、一人一人は、キリストの「体」の各器官ということでもある。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27)
一人一人がキリストの「体」の各器官であるということは、人は互いを必要とする関係であって、互いの中で、互いが存在しているということになる。個人が全体であり、全体は個人に参与していることになる。このさまは、三位一体という神の関係とまったく変わらない。というより、人は神に似せて造られたのでそうなる。いずれにせよ、人は互いに1つ「体」を持つ関係にある。堅い言い方をすれば、個人は同一の完全性を持っているということだ。
以上が、人と人とのつながりに関する聖書の教えとなるが、それによると、人と人とはつながっている。考えてみると、確かに人は互いにつながっている。生まれたときは育ててくれる人が必要であり、人格を形成するにも、食べ物を手にするにも、人との関わりが必要となる。さらに言うと、人が生きていくためには自然との関わりも必要になる。息を吸うには酸素を作り出す自然が必要であり、食物を手にするには、食物を生み出す自然が必要となる。そして、それらのつながりを底辺で支えているのが神である。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのである。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)
このように、人の目には見えないが、私たちは神の「いのち」を共有している。人は神と結びつき、人とも結びついている。そうやって、人は存在している。だから、誰が偉くて、誰が偉くないという話にはならない。誰が大切で、誰が不必要という話にもならない。誰もが大切で、必要という話になる。聖書はそのことを人の体に重ね、こう教えている。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。(Ⅰコリント12:23、24)
このことから、人における「死」とは何を指すのかが見えてくる。それは、1つ「体」から分けられることであり、神との結びつきを失うことである。また、人は互いを支え合う器官なので、人とのつながりを失うことも「死」につながる。それゆえ、人と人とを分けてしまうことは、「人殺し」をするのと同じになる。このことが分かれば、聖書はどうして「裁いてはならない」と教えているのか、その意味も見えてくる。
(2)「裁いてはならない」の意味
新約聖書で「裁く」と訳されるギリシャ語は、そのほとんどが「クリノー」[κρίνω]で、本来の意味は「分ける」(separate)である。あるいは「引き離す」(put asunder)であり、「区別する」(distinguish)である。つまり、「裁く」(judge)と訳されてはいるが、それはあくまでも「分ける」という意味を土台とする「裁く」となる。
従って、人を「裁いてはならない」とは、人と人とを「分けてはならない」という意味に解すのが正しい理解になる。要は、人を「区別してはならない」ということだ。なぜそのように教えるかというと、先に見たように、それは「人殺し」を意味するからだ。それでイエスは、次のような話をされた。
昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(マタイ5:21)
イエスは、「人殺し」という罪がいかに良くないかを確認し、続けてこう言われた。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22)
イエスはここで、「腹を立てる者」「能なしと言う者」「ばか者と言う者」は、誰でも「人殺し」と同じ罪を犯していると言われた。というのも、「腹を立てる」「能なしと言う」「ばか者と言う」、これらはどれも人を区別する行為であり、1つ「体」から人を分けることを意味し、「人殺し」と同じ行為になるので、イエスはこのような話をされたのである。
このように、「裁いてはならない」とは、人と人とを「区別してはならない」という意味であり、人を「分けてはならない」ということを教えている。人は1つ「体」で結ばれているために、そのようなことをすれば「人殺し」をすることになってしまうので、聖書は「裁いてはならない」と繰り返し教えている。聖書の行いの教えの根底には、この教えが貫かれている。
しかし、「裁く」という日本語は、「罪を裁く」という言葉があるように悪者を罰するという意味で使われる。それゆえ、「裁くな」というと、悪者を罰するなという意味に捉えられてしまい、人は「裁くな」という教えに抵抗を覚える。なぜなら、この世には悪者が大勢いるからだ。だが、聖書が教える「裁くな」とは、悪者を罰するなという意味ではない。善人、悪人という区別をするなという意味である。悪は悪として戦うが、だからといって、悪を行う人を区別してはならないという意味になる。分かりやすく言うと、病気と戦っても、病気になった病人は愛しなさいということだ。病人と自分たちを区別してはならないということだ。
いずれにしても、人はキリストの「体」を共有し、互いが「一つ」につながっている。だから心の中で人を見下げるのも、自己卑下をするのも、人に怒りを覚えるのも、人に嫉妬するのも、高ぶるのも、争うのも、どれもが人と人を分けてしまう行為になる以上、それは「人殺し」と何ら変わりがない。しかし、人と人とが「一つ」につながっているという話に疑問を持つ人も多いことだろう。そこで、「一つ」につながっていることを論証してみたい。
(3)愛他行動
溺れている人を助けようと川に飛び込み、亡くなった人の話を聞いたことがあるだろうか。この手の話は毎年のように報道される。彼らは見も知らぬ人を助けようと川に飛び込み、自らの命を投げ出したのである。似たような話は他にも多々ある。
例えば、電車のプラットホームから落ちた人を見て、とっさに助けに行った人が、落ちた人を助けることができたものの電車に引かれて亡くなったという話。例えば、電車の踏切が下りているのに渡り切れなかった人を見て、とっさに助けるも、本人は電車に引かれて亡くなったという話。例えば、海で溺れている人を助けようと飛び込み、自らの命を失った人の話。例えば、火事で逃げ遅れた人を助けるために殉職した消防士の話。
そうした話の中に、東日本大震災での出来事もある。東日本大震災では多くの人が津波にのみ込まれたが、その中には自らの命を顧みず、他の人の命を救おうとした人たちが大勢いたことが明らかになった。多くの人が、近所に住む一人暮らしのお年寄りや体の不自由な人を避難させようとし、あるいは見も知らぬ人を助けようとし、自らも津波にのみ込まれてしまったという。
命を失わないまでも、何の見返りを求めずに人を助けようとした話は後を絶たない。こうした自らの危険を顧みず、何の見返りも求めないで人を助けようとする行動を「愛他行動」という。その行動は、イエスが私たちを助けるために十字架に架かられたさまと重ならないだろうか。十分に重なる。つまり、人の中に、イエスがされたと同じ愛があるということだ。だが、考えてみてほしい。日頃は人と争う私たちが、自分さえ良ければと思う私たちが、どうして「愛他行動」なるものを実行できるのかを。
「愛他行動」は、普段の私たちの考えでは到底理解できない。普段の私たちは、自分の安全を第一に願い、「肉の安心」を求めて生きているからだ。こうした思いを「肉の思い」というが、この思いは人の中に「死」が入り込み、人が「死の恐怖」の奴隷になったことで生じるようになった。人は「死の恐怖」から逃れようともがき、「肉の安心」をむさぼるようになり、自分の安全を確保するようになったのである。それが「肉の思い」であり、「肉の思い」は「愛他行動」など絶対に認めない。そのことを確かめられる話をしよう。
心臓移植しなければ助からない人が大勢いる。ならば、あなたは進んで自らの心臓を差し出すことができるだろうか。無論できない。なぜなら「肉の思い」が、そんな聖人のようなことはできないと叫ぶからだ。「肉の思い」では、何を差し置いても自分の命を守ることが優先されるために、命を犠牲にすることなどあり得ないとなる。助ける相手が自分の愛する子どもであればまだしも、見も知らぬ人のためとなると、「肉の思い」は絶対に許可しないのである。このように、「愛他行動」なるものは「肉の思い」では到底理解できない。
ところが、普段は「肉の思い」に支配されている私たちが、自らを犠牲にし、見知らぬ人を助ける行動を取ってしまう。これは一体、どうしてなのだろう。それをするのが敬虔なクリスチャンであったなら、少しは合理的な説明がつくかもしれない。しかし、先に見た実例では、クリスチャンでない人たちが(中にはいたかもしれないが)、聖書の教える最も困難な「愛」を瞬時にやってのけたのである。
このことの唯一合理的な説明は、人は1つ「体」を共有し、互いがその器官であるとしか言いようがない。なぜそうなのかは、人の体に重ねてみればよく分かる。例えば、人はつまずいて転ぶと、大けがを避けるために、「手」という器官はとっさに受け身を取る。「手」は自分を犠牲にして、他の器官を守ろうとする。それは自然なことであり、1つ「体」ゆえにそうする。同様に、人が「とっさの時」に「愛他行動」を取るのは、互いに1つの「体」を共有し結びついているからとしか言いようがないのである。それだけが、唯一合理的な説明になる。では、さらに人は互いにつながっていることの話をしよう。
(4)人は互いにつながっている
人は互いにつながっていることを論証するためによく言われるのが、人が生まれながらに共通に持っている倫理である。倫理は、どの国の人であろうとも、どの時代の人であろうとも持っている。だから、人は共通のルールを作ることができる。そのことは、人が神の「いのち」を共有し、1つになってつながっていることを証ししている。
他にも、いつの時代の人であっても愛する者を亡くしたときは悲しみを覚える。人の死に悲しみを覚える。これも、人が互いにつながっていることを証ししている。またユングは、心理学の立場から、潜在意識の底辺に人類共通の意識(集合的無意識)が横たわっていることを論証した。そのことも、人は互いに1つの「体」を共有し結びついていることを裏付けている。
いずれにせよ、人が「愛他行動」を取るという事実だけを見ても、人と人とが目には見えないキリストの「体」を共有し、「一つ」につながっていることを十分に裏付けている。ならばどうして、「とっさの時」、「肉の思い」は「愛他行動」に反対しないのだろう。
実は、「肉の思い」は「愛他行動」に反対している。常に反対の立場を取る。しかし、「とっさの時」の場合、「肉の思い」がいくら反対しても、人の顕在意識としてはそれを受け止めて考える時間がない。考える時間のないときは、潜在意識が優先される。その潜在意識の底辺を陣取っているのが「魂」に蓄積された「御霊の思い」であり、これが最も素早く応答し、潜在意識に働きかける。それで、人は「愛他行動」を取る。
この辺りの説明をすると、それだけでかなりのページを必要とするので説明はこれだけにさせてもらうが、前回のコラムの最後の項目、“「肉の思い」と「御霊の思い」”を読まれれば、少しは理解の助けになるだろう(参照:福音の回復(61))。
以上で、人は互いにつながっているという聖書の話に納得してもらえただろうか。納得がいかなくてもそれは事実なので、人と人とを分けてしまうことは「人殺し」となる。それでイエスは、「『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22)と言われた。
無論、「ばか者」と言うことは実際に人を殺すわけではないが、そのことが導火線となって、最悪、殺人に至る。この世の戦争もそうだが、その底辺にあるのは人と人を分けようとする思いにほかならない。こうした最悪の事態に至らなくても、人と人を分けようとすると、人は激しく傷つくことになる。ただし、傷つくのは相手だけではなく、自分自身も、である。そのことも説明しよう。
(5)自分が傷つく
イエスは、「裁いてはならない」と言われた。それは、人を人から「分けてはならない」ということであり、人を「区別してはならない」ことを指す。その理由を、次のように言われた。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1、2)
ここでイエスは、自分とつながっている人を分ければ(裁けば)、あなた自身も、その人から分けられる(裁かれる)ことになると言われた。それは、互いが傷つくということである。だから、分けるのは(裁くのは)やめなさいという話をされた。このことは、実際の体の器官で考えればよく分かる。
例えば、「親指」という器官が、「人差し指」という器官を気に入らないからと、自分と分け、関わりを断ったとしよう。すると「親指」は、「人差し指」の働きも担うことになる。それは、何という不自由であり苦痛だろうか。器官は互いにつながっていて、互いを必要とする関係にあるので必ずそうなってしまう。人の場合も同じで、人を分けてしまえば自分自身が困ることになる。それでイエスは、「裁いてはならない(分けてはならない)」と言われた。
このように、人を裁いてはならない理由は、それは相手を傷つけるだけではなく、自らも苦しめ傷つけてしまうからである。つまり、裁くということは「分ける」ということであり、それは神が目指す「一体性」への攻撃を意味するのである。自らが自らの霊的な「体」を攻撃することを意味する。自分で、自分の「体」を傷つけることを意味する。だから、「裁いてはならない(人を分けてはならない)」のである。人を区別してはならないのである。
どうだろう。私たちは平気で人を区別したり、人を分けたりしてはいないだろうか。いつも自分だけを正しいとし、自分の考えと違う人を自分から引き離してはいないだろうか。それが、聖書が禁じている「裁く」であり、「人殺し」を意味する。ここに苦しみの原因がある。
従って、私たちは裁き合うのをやめ、「一体性」を求めるべきである。それを「愛」といい、人の根底には「一体性」を求める「愛」があるので、人は「とっさの時」、「愛他行動」ができる。だが、その「愛」が「死」によって入り込んだ「肉の思い」に封じ込まれているというのが、私たちの現状である。
では、この話に関連し、「神の裁き」について考えてみたい。聖書には、神が人を裁く話がある。そうなると、人は人を裁いてはならないのに、神は、人を裁いてもよいのかという疑問が湧いてくる。そこで後半は、「神の裁きとは何?」を考えてみたい。
【神の裁きとは何?】
(1)人はすでに裁かれている
聖書には、「神の裁き」があると書かれている。人は、その裁きの対象が「人」だと思っている。神が、天国に行く人と地獄に行く人を分けると信じている。それが「神の裁き」だと信じて疑わない。だがその考えは誤りなので、イエスは、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)と言われた。そして、「神の裁き」はこうであると言われた。
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」(ヨハネ16:11)
ここでイエスは、裁きの対象は「この世を支配する者」だけだと断言された。この世を支配しているのは「死」であり、その「死」を持ち込んだのが悪魔である。「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)。従って、「この世を支配する者」とは悪魔のことを指す。イエスはここで、悪魔だけを裁き、滅ぼすと言われたのである。それは「死」を滅ぼすということであり、人々を「死の恐怖」の奴隷から解放することを意味する。それで聖書は、イエスがされた実際の裁きを次のように証ししている。
「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(ヘブル2:14、15)
つまり、人に対する神の裁きは何もないということだ。裁くとは「分ける」という意味だが、神は人を、神から分けるようなことはされないのである。というより、人は悪魔の仕業によって、すでに無限なる神とは分けられた状態にあるから、分けられないというのが正しい。その証拠に、人の姿は無限ではない。神と分けられた状態にないのなら、人の姿も神同様に無限であるはずだ。だが、そうなっていない。やがて朽ち果てる「有限」の姿をしている。そうである以上、神は人を分けようがない。無限から有限に、分けようがない。それで聖書は、神の裁き(分ける)を次のように解説している。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている(すでに分けられている)。(ヨハネ3:18) ※( )は筆者が意味を補足
聖書は、キリストを信じない者は「すでにさばかれている」という。すでに、神からは分けられた状態にあるという。それゆえ人は、裁きの対象には、すなわち分けられる対象にはならない。人はすでに、神からは分かれた中にある以上、神が人にできることは救うことしかない。それで、この御言葉の直前にこう書かれている。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)
このように、人に対する神の裁き(分ける)など存在しない。「裁く」と訳されている言葉は「クリノー」であって、それはあくまでも「分ける」という意味である。人は悪魔の仕業によって、「すでにさばかれている(分けられている)」から、人は神の裁き(分ける)の対象になどならないことを聖書は教えている。
従って、神が裁く(分ける)のは「人」ではなく、人の中に入り込んだ「死」であり、それを持ち込んだ「悪魔」となる。そうすることで、神から分けられてしまった者を、再び神と結びつけるようにしてくださる。結びつけるのは人の「魂」であり、それに伴い有限となった人の「体」は、時が来れば無限なる「霊の体」に変えられ、復活させてくださる。「霊の体が復活するのです」(Ⅰコリント15:44、新共同訳)。これを「救い」という。神が人にされることは、この救いしかない。というより、それしかできない。なぜそうなのかを説明しよう。
(2)救うことしかできない
人は「すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)。それは、人が神とは分けられた状態にあることを意味する。この状態を「死」という。誤解してはならないのは、その「死」は神からではなく、悪魔から来たということだ。悪魔こそ、「死の力」を持つ者にほかならない。「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)。
人は、この悪魔の仕業によって罪を犯し、無限なる神と「一つ思い」を共有できなくなって神とは分かれた状態となった。これが人の姿と、人のために造られた被造物全てを、やがて朽ち果てる「有限」に変えてしまった。こうして、すべての人はアダムにあって死んだ者となった。しかしそれは、キリストにあっては生かされる者となったということでもある。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(Ⅰコリント15:22)
では仮に、神は人に罰を与える方だとしよう。しかし、死んでいる者に一体どのような罰を与えられるというのか。そんなものは何もない。死人を罰することなどできないし、罰したとしてもまったくもって意味がない。なぜなら、人は有限である以上、すべてが「無」にのみ込まれてしまうからだ。何も残らないので、何をしても意味がない。
が、しかし、神が死人にできることが1つだけある。それは、あのラザロを生き返らせたように、再び生きるようにすることだ。再び神との結びつきを取り戻させ、生きる者にすることだけが、神が死人に対しできる唯一有効なこととなる。それで、「キリストによってすべての人が生かされるからです」(Ⅰコリント15:22)と書かれていた。これが救いであり、救いは神の恵みによる。
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──(エペソ2:5)
つまり、神が人にしてあげられることは裁きではなく、神との結びつきを取り戻させる救いしかないということだ。だからイエスは、次のように言われた。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)
イエスは明確に、神が来られた目的を教えられた。それは人を裁くためではなく、神との結びつきを取り戻させるためだと。人を救うためだと。神が死人に対してできることは救いしかないので、すなわち生きるようにすることしかないので、イエスはこのように言われたのである。ならば、どうすれば人は救われるのだろう。
(3)どうすれば救われる?
人は生まれながらに、悪魔によって神とは分けられた状態にある。それを「死」という。ただし、それは神と1つ「体」を共有する関係を失っているということではない。神との交わりができない、「疎外」された状態にあるということを意味する。そのことは、人と人の関係に重ねると分かりやすい。
例えば、親子が戦争で引き離され、離ればなれになったとしよう。そうであっても、それは血のつながりを失ったというわけではない。親子としての関係はそのままである。ただ、交わりができなくなったというだけのことだ。それと同じで、人は「死」によって神とは引き離され、神とは分けられた状態にあっても、神との関係を失ったわけではない。人はいまだにキリストの「体」の器官なのである。それで聖書は、次のように教えている。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27)
ただし、その器官を生かすための血が流れていない。人の「魂」は神の「いのち」で造られてはいるが、そこに神の「いのち」を生かす血が「死」によって遮られている。これではいくらキリストの器官であっても滅ぶしかないので、聖書は「すべての人が死んでいる」(Ⅰコリント15:22)と言う。この死んでいる状態を指し、「すでにさばかれている(神と分けられている)」(ヨハネ3:18)と言っている。
ということは、人が生きるためには(救われるためには)、器官に血が流れるようにする必要がある。その血とは、「聖霊」なる神を指す。従って、人が救われるには、聖霊を受け入れる必要がある。そうすれば神との結びつきが回復し、死人から生きる者になれる。ここで重要なことは、人はロボットではないので、神は人の「意志」の同意なしには事を運ばれないということだ。そのため、人の「意志」が聖霊を受け入れる選択をしなければならない。そうでないと、人は死人のままとなり救われない。それでイエスは、次のように言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦(ゆる)していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(マルコ3:28、29)
神は人を裁くつもりなど毛頭ないので、イエスはここで、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」と言われた。しかし、人はすでに裁かれた(分けられた)状態にあるので、すなわち人はキリストの「体」の器官ではあるが、その器官に人を生かすための血が流れていないので、人を生かす聖霊を拒んでしまえば永遠に滅びてしまう。それでイエスは、「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」と言われた。
このように、人が救われるには聖霊を受け入れる必要がある。だから聖霊なる神は、絶えず人の「魂」に「自分を中に入れなさい!」と呼びかけてくださっている。その呼びかけを聞いた「魂」は、「聖霊を受け入れよ!」と自らの「意志」に訴える。しかし、「体」を牛耳る「肉の思い」は、「受け入れるな!」と訴える。2つの訴えを聞き、人の「意志」が聖霊を受け入れる選択をすれば救われるのである。
ただし、こうした聖霊とのやりとりは潜在意識の中で行われるので、顕在意識では受け入れる応答をしたかどうかは分からない。だが、受け入れれば聖霊が人のうちに住まわれるので、人は神との結びつきを回復する。回復すれば、キリストについての御言葉を聞くことで、イエス・キリストを信じますという告白ができるようになる。その告白を通して、聖霊の呼びかけに応答したかどうかが分かる。だから聖書は、救いについてはこう教えている。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)
ここに、「あなたの口でイエスを主と告白するなら」、救われるとある。それは、告白することで救われたことを知るようになるという意味である。従って、イエスを信じられる者は、すでに神との結びつきが回復した者であって「永遠のいのち」を持っているということになる。それでイエスは、はっきりとこう言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)
以上が、どうすれば人は救われるのかという話の概略になるが、この救いに関しては以前のコラムで詳しく説明したので、さらに詳しく知りたい方はそちらを参考にしてほしい(参照:福音の回復(44)(45))。さて、ここまで分かると、聖書に書かれている「神の裁き」の中身も明確になる。
(4)神の裁き
イエスは弟子たちに、「神の国」が来たので福音を宣べ伝えるように言われた。その際、あなたの話に耳を傾けない者がいれば、すなわち聖霊を拒み、イエスが信じられないという者がいれば、その者には「裁きの日」が訪れると言われた。
「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」(マタイ10:14、15、新共同訳)
またイエスは、こうも言われた。
「しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」(マタイ11:24、新共同訳)
これは、イエスのされた数々の力あるわざを見ても聖霊を拒み、イエスが信じられないという人々に語られた言葉である。こちらもやはり、その者には「裁きの日」が訪れると言われた。さらにイエスは、「裁きの日」についてこうも言われた。
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイ12:36、新共同訳)
これは聖霊を拒否する話の続きで語られた。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません」(マタイ12:31)。従って、「自分の話したつまらない言葉」とは、聖霊の拒否につながる、イエス・キリストを無視する言葉を指す。そのようなことをすれば、「裁きの日」が訪れると言われたのである。
こうした一連のイエスの教えから、聖霊の働きかけを拒む者だけに「裁きの日」が訪れることが分かる。このことから、「神の裁き」の中身が見えてくる。それは聖霊の呼びかけを聞いても応答しなければ、そのまま滅んでしまうということへの警告だと。なぜなら、人はすでに裁かれた(分けられた)状態にあって死んでいるからだ。人を生かす血となる「聖霊」を拒んでしまえば、その死が確定してしまう。その恐ろしさを訴える言い方が、「裁きの日」が訪れるであり、「神の裁き」の中身となる。
さらに言うと、聖霊を受け入れる選択ができるのは、肉体の死を迎えるまでである。それまでに心を改め、聖霊の呼びかけを受け入れなければ死人の状態が確定するので、「裁きの日」が訪れるといい、それを「神の裁き」という。すなわち、肉体の死を迎えると同時に、自分がどういう状態にあるかがあらわになることから、それを「神の裁き」という。だから聖書には、次のような教えがある。
あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。(ローマ2:5、新共同訳)
ここで「裁き」と訳されている言葉は、「クリノー」ではない。「アポカリュープシス」[ὰποκάλυψις]というギリシャ語で、おおいを取り除いてあらわにすることを意味する。つまり、神の裁きとは、神が誰かを罰するという意味ではなく、人の状態をあらわにするということなのである。聖霊を拒みイエス・キリストが信じられなければ(かたくなで心を改めようとしなければ)、死んでしまっている状態が確定してしまうが、その恐ろしい事実があらわになるのが「神の裁き」となる。聖書は肉体の死と同時にあらわになるこの恐ろしい事実を、「神の裁き」という言葉で教えているのである。そうすることで、神の言葉を信じる決心を促している。聖霊を拒むことなく、受け入れるよう促している。
このように、「神の裁き」という表現は、神が人を罰するという意味ではない。そうではなく、イエス・キリストを信じさせようとする聖霊の働きを拒ませないための訴えにほかならない。さらに言うと、神が死人である者たちを助けるから、この御手に掴まりなさいと決断を迫るのが、「神の裁き」という表現なのである。では、「神の裁き」のまとめをしよう。
(5)「神の裁き」のまとめ
人は、悪魔の仕業による「死」によって神とは分けられた状態となり、キリストの器官であってもそこには血が通っていない。これでは、滅びるしかない。それに対する警告が、「神の裁き」という表現となる。そうであるからこそ、イエス・キリストを信じる者には裁きが来ないと訴える。聖霊を受け入れれば血が通うようになり、死からいのちに移されるからだ。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)
神が差し出す救いの御手を拒めば、悪魔の仕業による「死」が確定してしまうので、イエスはこうした訴えをされた。しかし、神の御手を掴める機会は肉体が生きている間だけしかない。肉体の死と共に機会を失ってしまう。だからそれまでに聖霊の呼びかけに応答しなければ、肉体の死と共に、死んでいる状態が確定してしまう。それが永遠の死であり、人の完全な滅びを意味する。それは確かに、「裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」(マタイ10:15、新共同訳)となる。
このように、「神の裁き」というのは、神が人を罰するという意味ではない。悪魔の仕業で神から引き離されてしまった人に対し、神の御手につかまりなさいと決断を迫るのが「神の裁き」である。「肉体の死」という終わりの日を迎えたなら、神の国に行く者と、永遠の死にあずかる者とが確定してしまうので、「神の裁きが来る」から御手につかまりなさいと決断を迫る。終わりの日は、死んでいる状態があらわになるので、終わりの日に「裁き(あらわになる)が来る」と言う。
このことは、人がすでに死んでいる状態にあることが分からないと理解できないので、聖書は、私たちは死んでいる者だと訴える。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)。「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です」(ヨハネ5:25)。こうした訴えがなくとも有限である自分の姿を見れば、そのことは明らかである。
いずれにせよ、自分が死んだ者だと分かれば、「神の裁き」の意味も正しく理解できる。同時に、「神の怒り」の意味も理解できるようになる。それは神が怒って人を罰するということではなく、死んでいる者に対し、神の御手につかまりなさいと決断を迫っているのだと。
となれば、神が人に問う「罪」は、神の御手につかまらないことだけだと分かる。聖霊を拒み、神を信じないことだけが神の目には人の「罪」となる。それでイエスは、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(ヨハネ16:8)と言い、「罪」についてはこう言われた。
「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(ヨハネ16:9)
では、「裁いてはならない」の総括をしよう(参照:福音の回復(37))。
【総括】
(1)裁いてはならない
聖書に、「怒ってはならない」「憎んではならない」「争ってはならない」「高ぶってはならない」といった教えがある。さらには「親切にしなさい」「寛容でありなさい」「小さい者を大切にしなさい」「愛しなさい」といった教えがある。それらの教えの根底を貫いているのが「裁いてはならない」であった。
ただし、聖書が教える「裁いてはならない」は、善悪を明らかにせよではなかった。「分けてはならない」であり、「引き離してはならない」であり、「区別してはならない」という意味である。分けてしまうことは、1つ「体」で結ばれている私たちを殺すことに(傷つけることに)なるから、そのようなことはするなと教えている。目指すべきは、神が1つであるように、人も「一つ」になることだと聖書は一貫して教えている。それでイエスは、次のように祈られた。
「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」(ヨハネ17:11)
イエスは祈られただけではない。1つとなることを妨げる「隔ての壁」を、十字架で打ち壊された。これが神のされた救いの御業である。
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。(エペソ2:14、15、新改訳2017)
すなわち、神の裁きとは「隔ての壁」を壊すことであり、この「隔ての壁」は悪魔の仕業によったので、イエスは神の裁きの中身はこうだと断言された。
「さばきについてとは、この世を支配する者(悪魔)がさばかれたからです」(ヨハネ16:11) ※( )は筆者が意味を補足
このように、神は人を裁かれない。神が裁くのは「悪魔」だけである。それは、悪魔の仕業である「死」を滅ぼすことを意味する。すなわちキリストは、悪魔の仕業を打ち壊すために来られた。「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです」(Ⅰヨハネ3:8)。神と人とを分けてしまった「死」を、私たちから引き離すために来られた。それが、神における「裁き(引き離す)」のすべてとなる。こうして神は、人が神と1つになり、人と人とが1つとなれるようにしてくださる。それで聖書は、次のように教えている。
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。(エペソ4:3~5)
聖書が教える1つになることを妨げる行為を、「裁く」という。それは、人と人を区別することであり、この区別こそが神の思いに逆らう行為となる。しかし、人は「裁いてはならない」の意味を知らないので、平気で人を区別する。正確に言うと、「隔ての壁」(死)のせいで互いに区別し合ってしまう。裁き合ってしまう。その実際はこうなる。
(2)裁き合う実際
この世界は、悪魔の仕業による「死」に支配されている。その「死」はすべてをのみ込み、すべてを「無」に帰してしまう。それは人に恐怖を抱かせる。その恐怖から、人は必死になって自分は「無」でないことを証ししようとする。生きる価値があることを知ろうとする。
しかし、「無」に帰す有限の世界で生きる価値を見いだすことなどできない。なぜなら、すべては「無」にのみ込まれてしまうからだ。何を見いだしても意味などないとなる。そのため、有限の世界で見いだせる自分の価値は比較だけとなる。比較し、自分が勝っていると確認することで、有限の世界における一時の価値を見いだすしかない。それで、「死」に支配された世界では誰もが比較することを目指す。比較し、特別な自分になることを目指す。誰もが他の人よりも優れた自分になろうとする。この「比較」こそが「区別」であり、裁き合うことの実際になる。
例えば、人は比較することで、自分は「ダメな者」と決めつけ、自分と人とを区別する。例えば、人は比較することで、自分は「特別な者」と決めつけ、自分と人とを区別する。例えば、人は比較することで怒りを覚え、自分と人とを区別する。例えば、人は自分の考えと人の考えを比較することで、意見が違う者を排除し、自分と人とを区別する。例えば、人は他人の罪と自分の罪を比較することで自分を義人とし、自分と人とを区別する。
しかし、こうした区別こそ神が禁じた「裁く」行為となる。「一つのからだ」から、人を引き離す行為となる。それで、人は互いを区別すればするだけ傷ついてしまう。人は「一つのからだ」を共有するので、区別することで苦しむことになる。そうとも知らずに、人は裁き合ってしまう。区別し合ってしまう。
以上が、裁き合うことの実際となる。それは、当たり前のようにしてしまう「区別」にほかならない。私たちは「無」に帰せられる「死の恐怖」から、誰もが自分の価値を求め裁き合ってしまう。人と自分を区別し、特別な自分になることを目指してしまう。人はこうした生き方が、神が禁じている「裁いてはならない」に違反することだとは夢にも思わない。「裁いてはならない」というのは、ただ単に「赦しなさい」という程度にしか理解しないので、自分は人を裁いてはいないと思い込んでしまう。こうして罪は覆い隠され、苦しみが続く。
では最後に、「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい」(テトス3:10)について見ておこう。というのも、これは人と人を区別し、分けてしまいなさいという命令であり、これまでの話とは相容れないからだ。しかし、実は相容れる話なのである。そのことを最後に述べておきたい。
(3)除名せよ
聖書に、「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい」(テトス3:10)という教えがある。イエスも次のように言われた。
「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(マタイ18:17)
「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」とは、交わりを断ちなさいということを意味する。区別して、分けなさいということだ。イエスはここで、注意をしても罪を犯し続ける者がいれば、要は除名しなさいと言われたのである。そうなると、人を区別してはならない、分けてはならないという教え、すなわち「裁いてはならない」という教えと矛盾するのではないかと思ってしまう。しかし、その真意はまったく矛盾しない。そのことを説明しよう。
人の体を見れば分かるが、体のある器官がガンに冒されたなら、そのガンを切除しなければ他の器官にまでガンが広がってしまう。それでガンを見つけたなら、直ちにその部分は切除する。それは器官を生かすためであり、切除すればガンに冒されていた器官も再生する可能性がある。
こうしたガンのように、人に害を及ぼす罪がある。例えば「分派を起こす」ことは、1つ「体」を共有することに反抗する行為なので、人に害を及ぼす罪となる。その場合、注意をしても分派をやめなければ、その者を除名するしかない。つまり、それは1つ「体」を目指すためにそうするのである。互いが引き離されないためにそうする。
だが、ここで注意がいる。いくら除名したからといっても、その者を決して憎んではならないのである。なぜなら除名は、罪を自覚させ、罪人から罪を引き離させるための手術であるからだ。罪人を切り捨てろという話ではまったくない。そうではなく、罪人を罪から救い出すための愛にほかならない。それゆえ、本人が罪を反省するなら、再びその人を受け入れるべきとなる。実際、コリントの教会でそのことが起きた。周りに悪影響を与える罪を犯し続けていた者が除名され(Ⅰコリント5:1~5)、その措置を通して罪を悔いたのである。だからパウロは、次のように指示した。
悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。(Ⅱコリント2:5~8、新共同訳)
パウロは、「ぜひともその人を愛するようにしてください」と言った。それは、私たちは罪とは戦うが、人を愛することは忘れてはならないということだ。罪は死がもたらした病気であり、「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)、誰もが罪を犯すから、罪とは戦うが人を愛せよとなる。パウロも、罪を犯してしまう自分を告白した。ただし、それは私ではなく、私の中に住み着いた「罪」の仕業だと言い切り、罪は病気であることを示した。
ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。(ローマ7:17)
従って、病気である罪とはとことん戦うが、病人に対しては、とことん愛するのである。まさしくイエスもそうされた。イエスは、パリサイ人や律法学者たちの罪と激しく戦った。それは一見すると、イエスが彼らを裁いている(分けている)かのように映るが、実はそうではなかった。だから彼らの罪がイエスを十字架に架けるまでに至っても、イエスは彼らのためにこう祈られた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)
イエスは、パリサイ人や律法学者たちの罪とは激しく戦ったが、彼らを最後の最後まで激しく愛されたのである。イエスは決して彼らを分けた(裁いた)のではなく、彼らを罪から切り離し、彼らの「いのち」を取り戻そうとしたというのが真実にほかならない。
このことから、私たちがしてもよい区別(裁き)が1つだけあることに気付く。それは、罪人と罪とを区別することである。罪を裁くとはそういうことであり、罪人と罪とを区別し、罪人をとことん愛することを指す。それが神の考えであるからこそ、イエスはどんな罪でも赦し、罪人を愛された。罪人と罪とを区別し、罪人をとことん愛された。私たちがしてもよい区別は、いや、すべき区別は、まさしくイエスがされたと同じ区別である。それは罪と人とを区別し、人を心から愛することにほかならない。それこそが、神の裁きである。
◇