若い頃、牧師からこう言われた。「あなたの罪は赦(ゆる)されました」と。また、「これから先、あなたが犯す罪もすべて赦されています」とも言われた。ところが、あるとき罪を犯すと、「罪を言い表し、神に赦しを乞いなさい」と言われ、正直、その時は混乱した。罪が赦されているのなら、どうして罪の赦しを乞う必要があるのかと。本当は、まだ罪が赦されていないのかと。
これは、多くの人が抱く疑問だろう。そこで今回のコラムは、「罪が赦された」とは一体どういうことなのかを考えてみたい。罪が赦されることの中身を深く考えてみたい。結論から言うと、そこには3つの意味が存在する。第1に、神との結びつきが回復したという意味、第2に、罪が癒されたという意味、第3に、罪が消えてなくなるという意味がある。こうした意味を知るには、罪を正確に知る必要がある。そこで、話は罪を探ることから始めよう。
ただし、罪を正確に知る話には、前回のコラムと重複する内容が出てくる。というより、前回述べた「神の裁き」と、今回述べる「罪の赦し」はコインの裏表の関係になるのでそうなってしまう。だから、前回の続きだと思って読んでみてほしい。そうすると、前回の裁きの話もより深く理解できるだろう。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【罪を探る】
2つの罪
人は罪というと、悪い行いを連想する。聖書の言葉を使うなら、「肉の行い」を連想する。「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(ガラテヤ5:19~21)。そして人は、神はこうした罪を裁くと思う。しかし、それは誤りであったので、助け主なる聖霊が来られると、その誤りを訂正されるとイエスは言われた。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネ16:8)
イエスは続けて、聖霊が訂正されるという「罪」についてはこう言われた。
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、(ヨハネ16:9、新共同訳)
何とイエスは、ご自分を信じないことだけが「罪」だと言われた。つまり、神が問う罪は、イエスを信じるかどうかだけであって、人が連想する「肉の行い」の罪は何も問われないというのである。まことに信じがたい話だが、実際そうなので、イエスは次のようにも言われた。
だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。(ヨハネ12:47)
イエスはここで、「わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても」、すなわち神の律法に逆らう「肉の行い」の罪を犯しても、何ら問わないことを宣言された。
このように、「罪」には神が問う罪と、問わない罪とがある。神が問う罪は、あくまでもイエスを信じないことだけとなる。神の律法に逆らう「肉の行い」は罪であることに間違いないが、「罪とは律法に逆らうことなのです」(Ⅰヨハネ3:4)、それは問われない罪となる。そこで便宜上、神が問うという罪を「罪A」とし、問わないという罪を「罪B」としよう。
では、ここからは神が問うという「罪A」の実体を見ていく。そして次に、「罪B」の実体を見ていく。そうすることで、「罪が赦された」ということの意味も見えてくる。
「罪A」の実体
(1)「罪A」の中身
神が問う「罪A」は、イエスを信じないことを指す。それは、イエスを「キリスト」だと信じないことであり、イエスを救い主なる神だとは認めないことを意味する。しかし、「キリスト」を真実に信じるには、神からの助けが必要である。神の助けがなければ、すなわち神の方から「キリスト」を明らかにしてもらわなければ、真実に信じることなどできない。だからペテロが、イエスこそが「キリスト」だと真実に信じられ、それを告白したとき、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)、イエスはこう言われた。
バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16:17)
さらにイエスは、別の機会では次のようにも言われた。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネ15:26)
つまり聖霊なる神が、イエスは「キリスト」だと証ししてくださるから真実に信じることができる。そしてキリストを信じられることで、真実な方(父なる神)を知る理解力が与えられる。「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています」(Ⅰヨハネ5:20)。そうであるから、「キリスト」を信じる信仰は、自分自身から出たことではなく、神からの賜物にほかならない。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)
ということは、イエスを信じ、父なる神を信じるには、初めに聖霊を受け入れなければならないということになる。すなわち、イエスを信じない「罪A」とは、聖霊を拒むことを指す。
このように、神が問う「罪A」とは聖霊を拒むことなので、イエスは次のようにも言われた。
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコ3:28、29)
ここに「聖霊をけがす者」とあるが、「けがす」と訳されたギリシャ語は「ブラスペーメオー」[βλασφημέω]で、「反発することを口にする」様子を表していて、ここでは聖霊を拒む者の姿を言い表している。ならば、どうして聖霊を拒む者だけが罪に問われるのだろう。逆に、なぜ「罪B」は問われないのだろうか。イエスの教えを受けて書かれたヨハネの福音書を見ると、その理由がこう書かれている。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:18)
理由は、「すでにさばかれている」からだという。ここで「さばかれている」と訳されているギリシャ語は「クリノー」[κρίνω]で、本来の意味は「分ける」(separate)である。つまり、人はすでに神から「分けられた」状態にあるから、「罪A」だけが問われ、「罪B」は問われないというのだ。ならば、どうして分けられているとそうなるのだろう。そのことを知るには、そもそも神と分けられた状態にある(さばかれた状態にある)とはどういうことなのか、その実体を探る必要がある。それは、アダムとエバの時代にまで遡る。
(2)すでに裁かれているとは何?
その昔、アダムとエバは神と「一つ思い」であり、一つに結ばれていた。ところが、悪魔が蛇を使って人を欺いた。神は、善悪の知識の木の実を食べれば必ず死ぬと言われたのに、蛇は食べても決して死なないと欺いたのである。むしろ、食べれば神のようになれるとうそを吹き込んだ。
その言葉にエバは見事に欺かれ、「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)、蛇が語った「神と異なる思い」を信じてしまった。それで実を食べ、アダムにも実を差し出した。エバの様子を隣で見ていたアダムも蛇が語った「神と異なる思い」を信じ、差し出された実を食べた(創世記3:1~6)。
こうして、人の中に「神と異なる思い」が入り込み、人は「神と異なる思い」を抱くようになった。そうなると、神と「一つ思い」で結ばれていた関係は崩壊するしかない。人は、神と「分けられた」状態になるしかない。実際そうなり、人は無限である神との結びつきを失い、無限から有限になって土に帰る体となった。そのことを神はこう言われた。
あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。・・・あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。(創世記3:17~19)
これを「死」が入り込むといい、生きる者(無限)から「死人」(有限)になったという。人は悪魔の仕業で「神と異なる思い」を心に食べてしまったことで、すなわち罪を犯したことで死んでしまったのである。神が言われた、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)は、そのとおりになった。この一連の出来事を、新約聖書は次のように解説している。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。(ローマ5:12、新共同訳)
余談だが、旧約聖書は新約聖書の“影”であり、旧約聖書の出来事は新約聖書の光を当てない限り、その意味を正しく知ることなどできない。「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」(コロサイ2:17)。その新約聖書の光はアダムに起きた出来事を、人の中に罪(神と異なる思い)が入り、罪によって「死」(神と分けられる)が入り込んだ出来事だとした。すなわち、「すでにさばかれている(神と分けられる)」(ヨハネ3:18)とは、人が死んでいることを指していた。
このように、人はアダムにあって死んでしまっている。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)。そのことを、「すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)と言ったのである。ここまで分かれば、どうして「罪A」だけが問われ、「罪B」は問われないのかも容易に分かり、「罪A」の実体が明確になる。では、それを見てみよう。
(3)神が死人にできることは何?
アダムは悪魔の仕業によって、無限なる神とは分けられた状態になった。神だけが無限なので、神と分けられたことで無限から有限になった。人類は有限の姿となり、「無」に呑(の)み込まれてしまう運命を背負うことになった。まさしくそれは、滅びに至る「死人」の姿であった。
ならば、滅びに至るしかない「死人」に、一体どんな罪が問えるというのだろう。「死人」に対し、どんな罰があるというのだろうか。「死人」がする「肉の行い」の罪や、神を冒涜(ぼうとく)する罪を問うたところで、一体何になるというのだろう。何にもならない。なぜなら、すでに裁かれた状態にあって(神とは分けられた状態にあって)、滅びに至るしかない運命を背負っているからだ。それゆえ、「罪B」は問われないということになる。
そうなると、神は「死人」に対しては何もできないということになるのだろうか。何をやっても「死人」は滅びるので、何をやっても無駄ということになるのだろうか。いや、無駄にならないことが1つだけある。それは、「死人」を生きるようにすることだ。死んだラザロをよみがえらせたように、神との結びつきを取り戻させ、生きるようにすることだけは無駄にならない。それでイエスは、「死人」である私たちにこう言われた。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5:25)
イエスはここで、「死人」であっても「神の子の声」を聞いて応答するなら、生きる者になれると言われた。今日、「神の子の声」を届けてくれるのが聖霊である。聖霊は、「わたしの手に掴(つか)まりなさい。そうすれば助かるから」と「死人」に呼びかけ、御手を差し伸べてくださる。だから「死人」はそれを聞いて御手に掴まりさえすれば、生きる者になれる(参照:福音の回復(44))。しかし、「神の子の声」を聞いても聖霊を拒む(けがす)なら、死んでいる状態が確定し、とこしえに滅んでしまう。これを、「とこしえの罪に定められる」という。
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(マルコ3:29)
これで、「罪A」の実体は明らかになっただろう。どうして、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハネ16:9、新共同訳)と、イエスが言われたのかも分かっただろう。それは、私たちが「死人」だからである。「死人」に対して神ができることは御手を差し伸べ、彼らを生きるようにすることしかないから、聖霊の御手を拒むこと、すなわちイエスを信じようとしないことだけが、問われる「罪」になる。これが「罪A」の実体であり、それは生きるか滅びるかを左右していた。
このことが分かるなら、神は誰一人として殺していないことも分かる。ノアの時代の大洪水も然(しか)りだが、神はすでに死んでいた「死人」を一掃されただけで、人を滅ぼしてなどいない。いくら救いの御手を差し伸べても「死人」が拒否するので、彼らは自分が望んだように滅びたというのが事の真相である(参照:福音の回復(38))。神が「死人」に対してできることは、裁くことではなく、まさしく「死人」の状態から救い出すことでしかない。「死人」を救い出し、「永遠のいのち」を持つようにすることだけが神のできることであり、神は昔からそうされてきた。「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3:15)。それで聖書には、こう綴(つづ)られている。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16、17)
このことから、「罪が赦された」の意味が正確に見えてくる。それは「罪A」が赦され、「永遠のいのち」を持つようになったということである。「死人」から生きる者になったということであり、それはイエス・キリストが信じられるようになったことを意味する。一言で言うなら、神との結びつきを取り戻したということになる。
では引き続き、「罪B」の実体を見ていくことにしよう。そうすると、「罪が赦された」に込められた別の意味が見えてくる。
「罪B」の実体
(1)「罪B」は放置される?
人は生まれながらに「死人」であるため、神に問われる罪と、問われない罪とがある。人は神とは分けられた(裁かれた)状態にあって死んでいるので、「死人」を生かす聖霊を拒むことだけが罪に問われ、他の罪は問われない。それでイエスは、「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(マルコ3:29)と言い、その他の罪については、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます」(マルコ3:28)と言われた。
そうなると、「罪B」はどうなるのかという疑問が残る。「死人」が生きる者になっても、「罪B」は問われないまま放置されるのだろうか。そんなことはない。人が生きる者になったのなら、逆に「罪B」は見過ごせなくなる。「罪A」が赦され神との結びつきを回復したなら、「罪B」はその時点から途端に大きな問題となる。
というのも、神との結びつきを回復しても「罪B」が隔ての壁となって、神との交わりを邪魔するからである。「罪B」は肉の安心を求める罪なので、「罪B」を放置すれば、神との結びつきを回復しても心が神に向かないのである。これだと、神との交わりができない。できなければ神からの安息も得られず、苦しみ続けることになる。
そこで神は、「罪B」を取り除くための対応をされる。つまり、「罪B」を放置するということは決してないのである。ならば、神はどのような対応をされるのだろう。その対応こそ、「罪が赦された」の2番目の意味になる。そこで「罪B」への対応を知るためにその実体を明かす必要があり、それには「罪B」の起源を知る必要がある。
(2)「罪B」の起源
「肉の行い」である「罪B」の起源は、悪魔の仕業にまで遡(さかのぼ)る。なぜなら、悪魔の仕業でアダムは罪を犯し、その罪により「死」が入り込み、まさしく「死」はすべての人に及んだことで、人は罪を犯すようになったからだ。新約聖書の光は、そのように断言する。
それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった。(ローマ5:12、私訳)
つまり「罪」は、人が「死」に支配されたことで、人のうちに君臨するようになった。この御言葉はそのことを教えている。ゆえに、この御言葉の先にはこう書かれている。
それは、罪が死によって支配したように、(ローマ5:21)
新約聖書の光は、まことに「死」のとげが私たちの「罪」になったことを教えている。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。「肉の行い」である「罪B」には、「死」というとげが横たわっているということだ。そうなると、どうして「死」が人に罪を犯させるのか、という疑問が湧いてくる。その答えは、こうである。
人の「魂」は神の「いのち」で造られたので、「魂」は神を慕い求めている。「神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(詩篇42:1)。「魂」は、神の愛を知っている。その神の愛は自由であり、人は神と共に生きられる自由を知っている。その自由は、人の知る「可能性」となる。
ところが入り込んだ「死」のせいで、人は神と「分けられた」(裁かれた)状態となり、無限から有限になった。有限では、無限である神を見ることも触れることもできない。人の五感では、神の愛を認識することすらできない。つまり、神に愛されている自分を知ることがまったくできないのである。これでは人の知る「可能性」が、すなわち神の愛が現実にはならない。そのことが、人を「不安」にさせる。
その「不安」は、「お前なんか愛されない」と思わせる。「お前なんか価値がない」と思わせる。そこで人は、必死になって愛される者になろうとする。愛される「可能性」を必死に求め、生きる価値を見いだそうとする。しかしそうなると、愛されるための競争が起きる。誰が愛されるかをめぐって嫉妬が起き、怒りが起きる。こうして人は、互いに憎み合う方向に突き進む。この方向に突き進む行為が「肉の行い」であり、「罪B」となる。
まことに「死」は、そのまま人の罪に発展する。悪魔の仕業による「死」が人に「不安」を抱かせ、愛されるための競争を引き起こさせるから、罪へと発展する。こうした競争を、見える安心を求めるという。そうなると、罪の起源は「死」を持ち込んだ「悪魔」ということになるので、聖書はこう教えている。
罪を犯している者は、悪魔から出た者です。(Ⅰヨハネ3:8)
このように、「罪B」の源は悪魔であり、悪魔の仕業による「死」が実際の起源になる。「罪B」のこうした実体が分かれば、「罪B」に対する神の対応が見えてくる。見えてくれば、「罪が赦された」の2番目の意味が分かる。では、神がされる「罪B」への対応を見てみよう。
(3)「罪B」への対応
「罪B」となる「肉の行い」の罪を取り除くには、「不安」を排除する必要がある。「不安」を完全に排除するには「死」を滅ぼし、悪魔も滅ぼす必要がある。これは何を意味するかというと、「罪B」を犯す個人をいくら責めても、どうにもならないということだ。本人がいくら努力しても、善なる行いを実行できるようにはならないということだ。パウロはそのことを、自らの経験として次のように告白している。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(ローマ7:18、新共同訳)
さらには旧約聖書の教えを引用し、次のように断言する。
正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(ローマ3:10~12、新共同訳)
すなわち「罪B」は、人の努力ではどうにもならない病気と何ら変わりがない。そもそも「罪B」は外から入り込んだ「死」に由来し、人の本質には由来しない以上、どうにもならない病気という扱いになり、神からの癒しを必要とする。そこでキリストは、私たちの罪を背負って十字架に架かり、「死」を滅ぼし、その打ち傷で「罪B」を癒そうとされた。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)
これが神のされた、「罪B」を取り除くための対応にほかならない。それは、「罪B」の原因となった「不安」を、キリストの打ち傷で取り除くことであった。というのも「不安」は、神に愛されている自分を知ることがまったくできないことから来ているので、キリストはどれだけ愛しているかを十字架で示されたのである。そうやって、「罪B」という病気を癒そうとされた。
このように、「罪B」の実体は「不安」から来る病気であり、それゆえ神は裁かれない。そうではなく、「罪B」に対しては癒そうとされる。そのためにキリストは十字架に架かられた。これが「罪B」への神の対応である。このことから、「罪が赦された」の別の意味が浮上する。それは、「罪が癒された」という意味にほかならない。
見てきたように、罪には2つある。神が問う罪と、問わない罪がある。神が問う罪は、「死人」を生きるようにする聖霊の呼びかけを拒む罪であり、この罪を犯し続ければ「死人」の状態が確定することから、聖書はこの罪を「死に至る罪」(Ⅰヨハネ5:16)と呼ぶ。また、問わない罪は「肉の行い」の罪であり、こちらは罪としては問われないことから「死に至らない罪」(Ⅰヨハネ5:16)と呼ぶ。ただし、問われないだけで、この罪は「癒し」の対象となる。
以上のことが分かれば、「罪が赦された」という言葉の意味も正確に知り得るところとなる。すでに、その意味については簡単に触れてきたが、次項においてはその意味を正確に見ていくことにしよう。すると、そこには驚きの発見があることだろう。
【罪が赦された】
罪は2つに分けられる。イエスを信じない、すなわち聖霊を拒む「罪A」と、「肉の行い」の「罪B」とに分けられる。そこでギリシャ語で書かれた聖書は、「罪A」を主体に言い表すときは、罪を「単数形」にしている(例えば、ローマ6:6、11、14など)。「罪B」を主体に言い表すときは、罪を「複数形」にしている(例えば、ローマ4:7、7:5、Ⅰヨハネ1:9など)。無論、罪が両方を指す場合もあるので、その場合は「単数形」になっていることもあれば(例えば、ヨハネ8:34、ローマ5:13など)、「複数形」になっていることもある(例えば、マルコ1:4、使徒13:38など)。
そうなると、罪が「単数形」か「複数形」かは一つの目安であり、どちらの罪を表しているかを見極めるには文脈を頼るしかない。そうであっても罪には2つあるので、「単数形」と「複数形」とに分けられている。そうしたことから、「罪が赦された」という言葉には、「単数形」の「罪A」を指す場合と、「複数形」の「罪B」を指す場合と、その両方を指す場合の3つの意味が存在する(参照:福音の回復(48))。では、それぞれにおける意味を見ていこう。
(1)「罪A」が赦された
「罪が赦された」という場合、一つは聖霊を拒む「罪A」が赦されたことを意味する。それはすでに述べたように、聖霊を受け入れ、イエスを信じられるようになったということを意味する。別の言い方をすれば、神との関係が回復し、「永遠のいのち」を持つようになったということであり、死からいのちに移されたことを指す。イエスはそのことを、次のように言われた。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)
これが「罪が赦された」ということの最初の意味となる。一言で言うと、神との結びつきを取り戻したということだ。そしてイエスはここで、人が神との結びつきを取り戻したなら、裁きに会うことはないと断言された。それは聖霊を受け入れれば、聖霊が住まわれるようになるので、神と分けられる(裁かれる)事態は起きなくなるということである。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(Ⅰコリント3:16)
そうなれば、もう二度とイエス・キリストを否定する「罪A」は犯せなくなるので、「罪A」からは永遠に解放される。それで聖書は、次のように教えている。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ6:7)
ここでいう「死んでしまった者」とは、私たちは「死人」だったので、「死人」が死んでしまったということであり、「死人」が死と決別したことを言っている。死と決別すれば生きる者になるので、「死んでしまった者」とは、キリストとともに生きるようになった者のことを言い表している。それで、この続きにはこう書かれている。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ローマ6:8)
このように、「罪A」が赦された「死人」は、「キリストとともに生きることに」なる。神との結びつきを回復したということになる。であるから、もう二度と、神を信じないという「罪A」は犯せなくなるので、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」(ローマ6:7)と教えている。それはつまり、「罪A」が赦されたなら、「罪A」に再び支配されることなどないということだ。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。(ローマ6:14)
ここで取り上げた御言葉にある罪は、実はどれも「単数形」であり、明らかに「罪A」を指している。しかし、「罪A」と「罪B」のことを知らないと、「罪はあなたがたを支配することがない」の罪を「罪B」に解してしまい、救われたなら「肉の行い」をしなくなるという意味に解してしまう。そうなると、「肉の行い」に走る自分を見て、自分はいまだに救われていないと思う人が続出する。そうではないので、注意してほしい。いずれにせよ、「罪A」が赦されたなら、神の愛から引き離せる者は誰もいないということになる。だから心配は要らない。
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:39)
では、「罪が赦された」という場合の2つ目の意味を見てみよう。それは、「罪B」が赦されたである。
(2)「罪B」が赦された
「罪が赦された」という場合の罪は、「罪B」を指しても使われる。その場合の「罪が赦された」は、すでに述べたように、「罪が癒された」という意味になる。なぜなら「罪B」は、見てきたように「死」がもたらした「不安」に起因し、人の本質にはまったく起因しないので「病気」という扱いになるからだ。「罪B」は神にしか癒せない病気となり、イエス・キリストは私たち罪人の医者となる。それでイエスは、次のように言われた。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)
だから「罪B」を神に言い表し、あわれみを乞うなら、医者が病人の訴えを聞いて癒すように、神は「罪B」を癒してくださる。「罪B」を引き起こさせた「不安」を取り除いて、癒してくださる。この癒しを、「罪が赦された」という。このことを容易に知ることのできる出来事が聖書に書かれているので、それを見てみよう。
イエスが公での宣教を開始するやいなや、そのうわさはすぐに広がった。病人を癒したうわさも広がり、人々がイエスのもとに集まってきた。そんな時、イエスがおられた家が知れ渡り、案の定、多くの人が集まってきた。その中に中風の人がいて、彼は床に寝かされたまま運ばれてきた。しかし、群衆のために中には入れなかった。そこで、中風の人を運んできた人たちはその家の屋根をはがし、彼を上からイエスのもとに下ろした。それを見たイエスは彼にこう言われた。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(マルコ2:5)
ここに「彼らの信仰を見て」とあるが、それは屋根をはがしてまで神のあわれみを乞おうとした姿を見てということである。そのことから、いかに中風の人が自分の病気の癒しを訴えていたかが分かる。イエスはその訴えを彼らの行動によって確認したので、中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と言われたのであった。しかし、それを聞いた周りの人々は思った。この人は中風という病気を癒してほしいと訴えたのではなかったのかと。それなのに、「あなたの罪は赦されました」とは、一体どういうことなのかと。
確かに見た目には、中風という病気を癒してほしいと訴えていた。しかし、この人の本当の訴えは、罪という病気の苦しみであった。というのも、人はみな有限ゆえに「不安」を覚え、見える安心を求めるという罪を犯し苦しんでいたからだ。さらに当時は、病気は罪に対する罰だと思われていたので、この中風の人は、この病気は自分の罪に対する罰だと思い、なおさらのこと罪に対し苦しんでいた。彼の心は、そうした罪の苦しみを訴えていたのである。それでイエスは本人が願うとおりに、「あなたの罪は赦されました」と宣言することで「不安」を排除し、罪という病気を癒された。
つまり、イエスが言われた「あなたの罪は赦されました」とは、どんな罪人であっても、わたしはあなたを愛しているというメッセージであり、「不安」を取り除く宣言にほかならない。なぜなら、「あなたの罪は赦されました」という宣言以上に神の愛を伝え、「不安」を取り除ける宣言はほかにないからだ。そこでその宣言を聞けば、神の愛が見えないという「不安」は投げ捨てられ、罪という病気が癒されていく。こうして「罪が赦された」という宣言は、「罪が癒された」という意味になる。ちなみに、ここでイエスが中風の人に言われた罪は「複数形」であり、「罪A」ではなく「罪B」を指している。
このように、イエスは罪という病気で苦しんでいる者を癒された。ただ人は、自分が本当は何の病気で苦しんでいるかを知らない。誰もが、病気というと体のことを連想する。しかし、体にまつわる病気がいくら癒されても、それは一時的でしかない。どんなに健康であっても老化には勝てない。やがて体は土に帰る。だが、罪という病気が癒されれば、神への愛が増し加わっていく。その愛は、いつまでも残る宝となる。ゆえに神は、「罪A」が赦された者に対しては、罪という病気を癒そうとされる。それでイエスは中風の人に、「あなたの罪は赦されました」と宣言することで、罰に対する「不安」と、神に愛されていることが見えない「不安」を排除し、罪を癒された。そしてこのあとの出来事の中で、最初に取り上げた御言葉が出てくる。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)
イエスは罪人のことを病人と呼び、罪という病気を癒すために来たことを明確に告げられた。それで十字架に架かり、その打ち傷で罪を癒そうとされた。そのことを、もう少し説明しよう。
(3)「不安」を取り除く
イエスは、人の罪を背負い十字架に架かられた。人はその十字架を、自分が犯した罪の罰をキリストが代わりに背負ってくださったと思う。そのように思うとき、罰に対する「不安」は取り除かれ、罪という病気は癒されていく。それで聖書は、次のように証しする。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)
しかしキリストは、私たちの罪の罰を代わりに背負い、私たちに代わり十字架で罰せられたわけではなかった。だが人は、罪を犯すと罰を連想するために、自分の代わりに罰せられたのだと思ってしまう。実は、そうなることはあらかじめ預言されていた。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:4)
その預言によると、キリストの十字架は罪の罰ではなく、「私たちの病」を負ったものであったという。病における「私たちの痛み」を担ったものだという。その痛みとは、私たちが覚える「不安」にほかならない。だが人は、それを誤解するという。キリストは罰を担ったのだと。確かに人は誤解した。キリストの十字架は、私たちの罪の罰を受けたのだと。しかしこの続きには、真実はこうであったことが書かれている。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
キリストが負った「私たちの病」は、ここでは「私たちのそむきの罪」と言い換えられ、私たちの罪は病気であることを再確認している。よって、キリストは罰を受けたのではなく、病気を癒すために十字架に架かられたことを強調している。それは、こういうことである。
人は神との結びつきを失って以来、すなわち「死」が入り込んで以来、神の愛を認識できなくなり「不安」を覚えるようになった。そのことから見える安心を求めるようになり、人は「肉の行い」という「罪B」を犯すようになった。そして、罪を犯すことで新たな「不安」を覚えることになった。人は罪を認識すると罰を連想するから、罰を恐れて「不安」を覚えるのである。この世界は、罪を犯せば罰せられるという習わしになっているので、罪を犯せば必ず罰を連想し「不安」を覚えてしまう。それに付随し、犯した罪が暴かれ、周りから悪く思われないかと「不安」を覚える。そうやって、「不安」は大きくなっていく。
そうなると、人は「不安」から逃れようと、以前にも増して見える安心を求めるようになり、「肉の行い」にのめり込んでいく。それがさらなる「不安」をもたらし、さらなる罪へと発展する。これが人を苦しめる悪の循環であり、このことが心を神に向けさせなくさせている。さらに言うと、罪に結びつく「不安」はそれだけではない。人はこれから起きる出来事にも「不安」を覚える。将来に対する不安、経済的な不安、仕事の不安、健康への不安など、さまざまな場面で「不安」を覚える。まさに人の心は「不安」の大合唱状態にあり、それらすべての「不安」が、見える安心を求めるという罪に結びついている。
実は、人が覚えるこうした「不安」は、どれもが“影”であり、本体は神の愛を認識できないことの「不安」にある。神との結びつきに確信が持てないことの不安定さから来る「不安」である。よって、本体となる「不安」を解決しない限り、いくら覚えた「不安」を解決しても、また次から次に「不安」が襲ってきては罪を犯すということを繰り返す。これでは人の苦しみは終わらないし、神との結びつきも築かれてはいなかない。
そこで神は、人を真剣に愛していることを明らかにすることで、本体の「不安」を取り除き、そのことで犯してしまう罪を癒そうとされた。それが十字架の死であり、それはあくまでも、罪人への愛を示されたものであった。罪の罰を、代わりに受けたというのではなかった。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)
そもそも「罪B」は裁かれない。罪に対する神の罰などない。それゆえ、罪の罰を背負いようがないのである。だが人は有限ゆえに生じる恐怖から、罪を犯すと「罰」をどうしても連想する。そのせいで、キリストは十字架で自分の罰を背負ってくれたと思い、そのことで罪が赦されると人は考える。それは正しい理解ではないが、こうした人の思いを神は許容される。なぜなら、それにより神に愛されていることを知り「不安」が取り除かれるなら、「罪B」は癒されていくからだ。しかし、真実は違っていたことをイザヤ53:5は教えている。
このように、私たちが犯してしまう「罪B」は「不安」による病気であり、癒しの対象となる。それで、神は「罪が赦された」と宣言してくださる。そう宣言すれば、人は罪に対しては「罰」を意識するので、その罰は帳消しになったと思い「不安」は排除され、神の愛を知り、「不安」による病気が癒されていくからだ。従って、「罪が赦された」とは、「罪が癒された」ことを意味する。「不安」という悪からきよめられることを意味する。そこで聖書は、罪を赦してもらいたければ、すなわち罪の癒しを受けたければ、罪を言い表すよう教えている。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)
罪を心から神に言い表したなら、言いようもない「平安」に包まれる。というより、神の前に自分の罪を言い表し、神のあわれみを乞うこと以上に「平安」に包まれる出来事は他にない。この「平安」こそが、「罪が赦された」ことを知る経験であり、そのことで神に愛されている自分を知り、罪が癒されていく。「罪が赦された」とは、こうして「罪が癒された」ことを意味する。ちなみに、「自分の罪を言い表すなら」の罪は「複数形」で、「罪B」を指している。では、「罪が赦された」の3番目の意味を見てみよう。
(4)両方の罪が赦された
「罪が赦された」の最後の意味は、「罪A」と「罪B」の両方の罪を指して使われる。その場合の意味は、罪は消えてなくなるである。聖書に、次のような御言葉がある。
たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)
これは神が言われた言葉であり、神は人の罪がどんなに汚いものであっても、「雪のように白くなる」と言われた。どんなに目立つ色をしたような悪い罪であっても、「羊の毛のようになる」と言われた。つまり、すべての罪は跡形もなく消えてしまうということだ。これが、「罪が赦された」の最後の意味となる。ならば、罪が消えてなくなるとはどういうことなのか、分かりやすく説明しよう。
人には記憶する媒体が2つある。一つは「肉の体」であり、もう一つは「霊の魂」である。ただし、記憶されるものはまったく異なる。「肉の体」は、肉的な関わりにまつわる情報だけを記憶する。人が犯した罪の情報、受けた苦しみや悲しみの情報などは、すべてここに記憶される。それに対して「霊の魂」は、霊的な関わりにまつわる情報を記憶する。その霊とは神のことであり、「神は霊ですから」(ヨハネ4:24)、神に愛され神を愛した情報が記憶される。神を愛するとは人を愛することでもあるので、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Ⅰヨハネ4:20)、人を愛(アガペー)したことの情報も記憶される。
人にはこのように、「肉の体」と「霊の魂」という2つの記憶媒体があり、そこには異なる情報が記憶される。だが「肉の体」には死が訪れ、やがて朽ち果てる時が来る。そうなると、そこに蓄えられてきた情報はすべて消滅する。罪の記憶も、苦しみや悲しみの記憶もすべて、「肉の体」の死に伴い消滅する。そのことで、罪を犯した事実はどこにも存在しなくなる。そして、「罪A」が赦され神との結びつきを回復していた者は、「霊の体」に着替えさせられ復活する。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(Ⅰコリント15:44、新共同訳)
「霊の体」に着替えさせられると、「死」も完全に滅びてしまう。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(Ⅰコリント15:54)
こうして「死」は勝利にのまれ、「罪A」も「罪B」も完全になくなってしまう。「死」という有限がもたらした体の病気からも完全に解放され、ここに悪はすべて消滅する。そのことで、次の約束が成就する。
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3、4)
神は人が復活し、天の御国で暮らすようになる際は、そこには「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」と言われた。「以前のものが、もはや過ぎ去った」と言われた。これは肉的な関わりにまつわる情報も、それをもたらした「死」も、すべて消えてなくなるということである。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ1:18)の成就を意味する。
考えてみてほしい。天の御国に行っても、自分の犯した罪を覚えていたならどうなるかを。そうなれば、後悔に苛まれてしまう。それだけではない。誰かの罪によって苦しんだ記憶も覚えていたなら、天の御国に行っても憎しみと戦い続けることになる。これでは、天の御国に行っても安息は得られない。しかし感謝なことに、「肉の体」の消滅に伴い、そうした記憶も事実もすべて消滅し、真っ白な状態の「霊の体」に着替えさせてくださる。その時に覚えているのは、「霊の魂」に記憶された情報だけとなる。それは神を愛し、人を愛した情報であり、「愛」による「信仰」と、「希望」の情報だけが残る。それで聖書はこう教えている。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(Ⅰコリント13:13)
このように、「罪が赦された」の最後の意味は、「罪A」も「罪B」もすべて消えてなくなる、である。それはただ、罪の記憶が消えてなくなるというのではなく、罪を引き起こさせていた「死」も完全に消滅するということである。そもそも「赦す」と訳されるギリシャ語は「アピエーミ」[ἀφίημι]で、本来の意味は「投げ捨てる」であり、「罪が赦された」とは、私たちの罪が永遠に投げ捨てられたことを意味する。イエスはそうなることをご存じだったので、あなたの罪は赦されたと宣言し、罪人を分け隔てなく愛された。以上の話から、キリストが来られた目的が分かる。最後に、その話をしよう。
(5)キリストが来られた目的
冒頭で、若い頃に牧師から、「あなたの罪は赦されました」と言われ、また、「これから先、あなたが犯す罪もすべて赦されています」とも言われた話をした。それは「罪A」が赦され、もう二度と「罪A」を犯すことができなくなったということであった。またそれは、「罪B」は問われることがないので、「罪B」が癒されていくという意味でもあった。またそれは、罪は消えてなくなるという意味でもあった。ということは、キリストが来られた目的は、罪を取り除くためであったということになる。
キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。(Ⅰヨハネ3:5)
つまり、キリストが来られたのは、信じないという「罪A」を取り除いて神との関係を回復させ、すなわち「永遠のいのち」を持つようにさせ、そして次に、「肉の行い」という「罪B」を癒し、人が神と人を愛せるようにするためであった。これを、「永遠のいのち」を豊かにするという。イエスは、そのために来られたのである。それでイエスは、次のように言われた。
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)
罪を完全に取り除くには、罪の源流となった「死」を滅ぼさなければならない。その「死」は悪魔の仕業であったので、そういう意味では、キリストが来られたのは悪魔の仕業を打ち壊すためであったということになる。
罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(Ⅰヨハネ3:8)
実際キリストは、その十字架で「死」を滅ぼされた。その証拠にキリストは復活し、いのちと不滅を明らかにされた。
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(Ⅱテモテ1:10)
そして「死」を滅ぼすために、キリストは十字架で「死の力」を持つ悪魔を滅ぼされた。それはまさしく、一生涯「死の恐怖」の奴隷となって罪を犯すようになった人々を解放するためであった。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14、15)
神は、この十字架の御業によって「死」を滅ぼし、「死の恐怖」(不安)による「罪B」を癒すことができるようになった。キリストの打ち傷による本気の愛を示したことにより、神に愛されていることが見えない「不安」から人々を解放し、見えるものに安心を求める「罪B」を癒すことができるようになった。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)
こうした恵みを携え、聖霊なる神は救いの御手を誰に対しても差し伸べてくださる。だから、聖霊の呼びかけに応答し、その御手に掴まった者は「罪A」が赦され、その者の「魂」は神との結びつきを回復する。その者のうちに主が到来し、約束の「神の国」が実現する。それでイエスは、次のように言われた。
神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:20、21)
この事実を知ったパウロは、このことを次のように言い換えた。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(Ⅰコリント3:16)
そして「神の神殿」が築かれ、「神の国」のただ中に入れられた者は、すなわちイエス・キリストを信じるようになった者は、「肉体の死」と同時に「霊の体」に着替えさせられ、体をもって「神の国」に移り住む。それにより、その人における「死」は完全に滅び、十字架における神の贖(あがな)いが成就する。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。(Ⅰコリント15:54)
すなわち、「罪が赦された」の真の意味は、神の贖いの成就が確実に担保されたということである。信仰的な言い方をするなら、神の贖いは成就したということになる。そういう意味では、「罪が赦された」とは、何も心配は要らないという神からの励ましであり、悪に対する勝利の宣言にほかならない。
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