あなたは、自分が物事を逆さまに見ていることを知っているだろうか。誰もが、物事を逆さまに見ている。というより、逆さまに見える眼鏡を掛けさせられている。そして、逆さまに見える世界が正しい世界だと思い込んでいる。
あるテレビ番組で、こんな実験が行われた。それは、すべてが逆さまに見える眼鏡を掛けて生活をするとどうなるかという実験であった。1日目は何度も転び、物を掴むことすらままならなかった。2日目になると少しは慣れてきたが、やはり日常生活を送ることは困難であった。ところが、1週間が経過すると、驚くべきことに、普通に生活できるようになっていた。脳が逆さまに映っていた世界を、逆さまではなく、正常な世界として認識するようになったのだ。恐るべき、脳の力である。
今回のコラムは、私たちは逆さまに見える眼鏡を掛け、それを正常だと思って暮らしているという話をしたい。そんなことはないと思うかもしれないが、脳は人が逆さまに見ていても、それをいつの間にか正しい姿として認識するようになるので、私たちは逆さまに見ていても気づかないのである。まことに理解に苦しむ話ではあるが、イエスが言われた次の言葉を読めば、それは真実だと分かる。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)
「貧しい者」と訳されているギリシャ語は「プトーコス」[пτωχός]で、恐れちぢこまっている状態を意味する動詞から生まれた言葉で、物乞いをするしかない極めて貧しい人たちを意味する。それに「心」がつくので、「心の貧しい者」とは、心が物乞いするしかない者たちを指す。つまり、心に苦しみを覚える人たちを指している。その苦しみには、「罪」から来る苦しみも含まれるので、罪で苦しむ罪人たちでさえも幸いだということになる。しかもイエスは、彼らこそ天の御国にふさわしいとまで言われる。
しかし私たちの目には、神にあわれみを乞うしかないような罪人こそ、天の御国からは最も遠い人に見える。この世的な言い方をすれば、そんな罪人にこそ地獄がふさわしいとなる。だから、決して「幸い」になど見えない。「哀れ」にしか見えない。
このように、イエスと私たちとでは、「罪人」がまったく違って見える。その場合、イエスの方が正しいので、私たちが逆さまに見ているということになる。では、どれだけ逆さまに見てしまっているのか、どうすれば正しく見えるようになるのか、そうした話をしていこう。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【逆さまに見ている】
(1)「行い」が人の価値?
イエスはこんな譬(たと)え話をされた。それは、「神の国」ではどのように見えるのかという話であった(マタイ20:1~16)。その話を今風に焼き直すと、こうなる。
ある時、農園の主人は収穫の手伝いをしてくれる人を探しに朝早く町に行った。そこで、1万円の日当を支払うから誰か手伝ってくれないかと言った。すると元気のよい者たちが名乗りを上げた。それから9時ごろ、主人は再び、日当を支払うから手伝ってくれないかと働き手を探しに行った。そこでは、いくら日当を払うかは言わなかったが、今度は別の元気のよい者たちが名乗りを上げた。それからのちも、主人は働き手を探しに行った。そして最後は、5時ごろに探しに行った。すると、そこには体が弱くて誰も雇ってくれない者たちがいた。主人はその者たちに雇ってあげるからと言い、農園に行かせた。
主人は夕方になったので、働いてくれた人たちに日当を払うことにした。そこで最初に、5時過ぎに来て少ししか働いていない人たちを集め、1万円を支払った。それを見ていた、1万円の日当の約束で朝から8時間以上も働いていた元気のよい者たちは、「自分たちには8万円以上の日当をくれるに違いない!」と思った。
ところが何と、彼らの期待に反し、同じ1万円しかもらえなかった。彼らは「不公平だ!」と文句を言った。しかし主人は、自分は何も不正などしていないと言い返した。約束した分は支払ったと言った。そして「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」(マタイ20:14)と言ったのである。イエスは、この譬えの締めとしてこう言われた。
「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)
この話を読むと、誰もが思う。確かに「不公平だ!」と。朝から長い時間働いた者は、少ししか働かなかった者よりも多くの報酬を受け取るべきだと思う。しかし、それは間違っているとイエスは言われたのだ。「神の国」では、誰もが同じ報酬を受け取ることが正しいと言われた。そう言われても、それは不公平にしか見えない以上、私たちは逆さまに見ているということになる。
不公平にしか見えないのは、この世界では誰もが「行い」に人の価値を見いだすからだ。良い行いをする人は価値があり、悪い行いをする人は価値がないとするから、よく働いた人はそれなりの報酬を受けて当然であり、あまり働かなかった人は報酬が少なくて当たり前となる。ゆえに、長い時間働いた者たちと、少ししか働かない者とが同じ報酬というのは「不公平」にしか見えない。しかし、それは間違っているとイエスは言われたのである。つまり、「行い」に人の価値を見いだすのは誤りだということだ。
このように、私たちの目には、価値がまったくないように見える人であっても、神の目には価値がある。私たちの目には価値があるように見える人であっても、神の目には、私たちの目には価値がまったくないようにしか見えない人と何ら変わりがない。それでイエスは、「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」(マタイ20:16)と言われた。このイエスの話が真実ならば、私たちは逆さまに見ているということになる。では、さらにイエスが指摘されたことを見てみよう。
(2)「うわべ」が人の価値?
人が「行い」で人の価値を見てしまうのは、人の素の状態が「無価値」にしか見えないからである。自分の姿が「無価値」に見えてしまうので、良い「行い」で「うわべ」を飾り、価値ある者になろうとする。それで、人は「行い」で人の価値を見てしまう。「うわべ」を飾るものは「行い」だけではない。他にも、着る物や持ち物、そうしたもので「うわべ」を飾り、価値ある者になろうとする。すべては、自分が「無価値」にしか見えないことに起因する。
自分が「無価値」にしか見えないというと難しく聞こえるが、要は、自分の裸を恥ずかしいと思ってしまうということだ。自分のありのままの姿を恥ずかしいと思い、何かで覆い隠したくなるということである。それで、人は必死になって「うわべ」を良くしようとする。良くすることで、少しでも価値ある者になろうとする。そうした事情から、人は何を着るかと着物のことで心配する。どうすれば「うわべ」を着飾ることができ、価値ある者になれるのかと心配する。ところが、イエスはこう言われた。
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(マタイ6:28、29)
ソロモンは、イエスの時代の人なら誰もが知るイスラエルの王であった。彼は信じがたいほどの富を手にし、多くの宝石で自分を着飾っていた。イエスはそのことを引き合いに出し、「ソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」と言われた。人が自分をどんなに着飾ろうが、人の素に勝ることなどできないと言われたのである。これを、分かりやすい譬えにするとこうなる。
ある花が自分を見て、何とみすぼらしい姿をしているのかと思った。そこで花は友達のお猿さんにお願いをし、自分を宝石や着物で飾ってほしいと頼んだ。そこで、お猿さんはそのようにした。花は着飾った自分の姿を見て満足し、これでようやく価値ある者になれたと思った。そこに、花を育てていた主人が戻り、何ということだと驚いた。素のままで美しい姿をした花なのに、どうしてその姿を宝石や着物で隠し、見るも無残にしてしまったのかと。どうしてそんな姿を喜ぶのかと。花を育てた主人は花の素晴らしさを知るだけに、花がしたことに驚いた。
イエスが言われたのは、まさしくそういうことである。御子であるイエスが人を造られたので、「万物は御子にあって造られたからです」(コロサイ1:16)、人がどれだけ価値があって美しいかを誰よりも知っていたからこそ、そのように言われた。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)。ところが、人は自分の姿が「無価値」にしか見えない。誰もが自分を恥ずかしいと思ってしまい、何を着ようかと思い煩う。それでイエスは、「なぜ着物のことで心配するのですか」と言われたのだ。
このように、人の目に映る人の姿と、神の目に映る人の姿は真逆である。この世界で見える人の姿と、神がおられる「神の国」で見える人の姿とはまったく違う。「神の国」では美しく見えても、この世界では恥ずかしい者にしか見えない。「無価値」にしか見えない。だから人は、「行い」や「成果」、着る物や持ち物、そうしたものを人の価値とし、それで自分を着飾る。着飾った価値に従い、人は報酬を得ようとし、また与えようとする。では、さらにイエスが指摘されたことを見てみよう。
(3)能力が人の価値?
この世界では、人の素の状態は「無価値」にしか見えないので、人は価値ある者になろうとする。何かで着飾り、価値ある者に見られようとする。ただし、いくら素の状態が「無価値」に見えても、互いを比較すれば、その素の状態にも差がある。「容貌」の良し悪しがある。頭の良し悪しがある。運動ができるできないがある。そうした差を、ここでは「能力」の差と呼ばせてもらう。いずれにせよ、そうした差から人の「働き」も決まるため、人は、その人がどのような「働き」をするかで人の価値を判断する。
イエスの時代も、人々はその人の「働き」で価値を判断していた。そのため、神に用いられたバプテスマのヨハネこそ、価値ある人物であり、偉大な者とされた。彼はイエスが宣教を開始するに当たり、その道を整える「働き」を神から任されたので、ことさら偉大な者とされた。それに対し、イエスはこう言われた。
「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11、新共同訳)
イエスは言われた。確かにお前たちの眼鏡で見れば、「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」となるだろう。しかし「神の国」では、能力が劣って「働き」が少ないという理由で、「小さい者」だと見下された者のほうが、「彼よりは偉大である」と言われた。つまり、「神の国」では誰もが素晴らしい者として扱われ、誰が偉いとか偉くないとかいう見方など存在しないということだ。「働き」の差は、人の価値の差ではないということだ。
ならば、「働き」の差は何なのだろう。それは、互いが一つの体の器官になるために必要なものであり、人の価値の差ではないと聖書は教える。それによると、人はキリストの器官として造られたので、みな「働き」が違い、能力の差があるという。そうでなければ、どうやって体が機能するのかという。
「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです」(Ⅰコリント12:17、18)
確かに、一つの体を築き上げるには、異なる「働き」をする器官を必要とする。だから、人を通してキリストのからだを築き上げるには、各人が「働き」の違いを持つようにする必要がある。それで能力の違いがあり、「働き」の違いがある。私たちがキリストのからだであり、ひとりひとりがその器官ゆえにそうなる。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(Ⅰコリント12:27)
そうであるから、誰が偉いとか偉くないとかいうことはまったくない。誰もが一つ体を築き上げるために、互いが互いを必要とする関係であって、互いの中で、互いが存在している。そのさまは、三位一体の神の関係とまったく変わらない。というより、人は神に似せて造られたのでそうなる。ゆえに真実は、誰もが同じ価値を持ち、誰もが必要な存在なのである。
さらに言えば、人は自分の体で劣っていると思われる器官ほど大切にする。弱い部分ほど守り、強くしようとする。同様に、私たちからすると能力が劣って見える「小さい者」ほど、神は目を掛けておられる。そうやって、人の調和を保っておられる。
「また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです」(Ⅰコリント12:23、24)
このように、人の目に映る人の姿と、神の目に映る人の姿は真逆である。この世界で見える人の姿と、「神の国」で見える人の姿とはまるで違う。「神の国」では誰もが必要で大切な存在なのに、この世界では、その様子がまったく見えない。「働き」の違いが価値の違いに見えてしまう。それで、ある人は偉大に見え、ある人は「小さい者」に見えてしまう。こうして、人は人を差別してしまう。
このことは、まさしく人が逆さまに見える眼鏡を掛けていることを明示している。だが、人はそれに気づかない。それどころか、自分の見方こそが正しいと思い込んで暮らしている。これは何という悲劇だろうか。アンデルセンの童話に、醜くもないのに醜いと思い込んで生きる白鳥の子の物語『醜いアヒルの子』がある。神の目からすると、人は「醜いアヒルの子」と同じ生き方をしているのだ。
話はそれだけでは済まない。人は逆さまに見える眼鏡を掛けているせいで、人を差別し、憎み、敵意さえ覚えてしまう。要は、人を愛せていないのである。これは、明らかに神の律法の全体に逆らっている。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」(ガラテヤ5:14)。すなわち、この逆さまに見える眼鏡が、人に「罪」を犯させているのである。そうとも知らず、人は自分が「ダメな者」だから罪を犯すと思い込んでいる。これも、何という悲劇だろうか。
そこで、人はいつから逆さまに見える眼鏡を掛けるようになったのかを調べてみたい。いつから物事が逆さまに見えるようになって、人を愛せなくなってしまったのかを探ってみたい。今度は、眼鏡の起源の話に移る。
【眼鏡の起源】
(1)逆さまに見えるまでの経緯
神はアダムを造り、そしてアダムからエバを造られた。彼らはエデンの園と呼ばれた場所で、神と一緒に暮らしていた。神と「一つ思い」の関係の中で暮らしていた。そこは神が支配する「神の国」であり、「永遠のいのち」しかなかった。「死」はなかった。「不安」も「恐怖」も存在しない世界であった。それで人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。
「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:25)
そもそも人は神に似せて造られたので、その姿は神の栄光を現していた。「男は神の似姿であり、神の栄光の現れだからです」(Ⅰコリント11:7)。ゆえに、その姿を恥ずかしいと思うはずもなかった。その姿は、非常に良かった。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)
つまり、アダムとエバは、自分たちの姿が価値ある姿にしか見えなかったのである。恥ずかしい姿になど、決して見えなかった。見えないから、何かで覆い隠そうとも思わなかった。ところが、ある事件を境に、自分たちの姿が逆さまに見えるようになった。自分の姿が「無価値」に見え、その姿を恥ずかしいと思い、何かで覆い隠したくなったのである。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)
彼らは自分たちの裸を恥ずかしいと思い、その姿に「恐れ」を覚えるようになり、それで何かに身を隠すようになった。
「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」(創世記3:10)
このように、ある事件を境に、良いものが悪いものに見えるようになってしまった。物事が逆さまに見えるようになった。まことに逆さまに見える眼鏡の起源は、アダムとエバにまで遡る。ならば、2人に一体何が起きたというのだろう。どうして逆さまの眼鏡を掛けることになったのか、その事件を見てみよう。
(2)「死」が入り込む
その事件は、悪魔が蛇を使ってエバを欺いたことに端を発した。「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)。欺くとは、「神と異なる思い」を、あたかも神の思いかのように思い込ませることをいう。エバは簡単に思い込まされ、食べてはならないと神から言われていた実を取って食べてしまった。エバは一緒にいたアダムにも実を渡したので、アダムも食べてしまった。アダムも、「神と異なる思い」を正しいと思い込んだのである。
そうなると、神との間にあった「一つ思い」の関係は崩壊するしかない。こうして、人は神との結びつきを失った。正確に言うと、神と「疎外」された関係になった。というのも、人の「魂」は神の「いのち」で造られたので、神との結びつきを失ったといっても、物理的な結びつきを失ったわけではないからだ(創世記2:7)。これを、一般には「霊的な死」という言い方をするが、ここでは神との関係をイメージしやすいように「神との結びつきを失った」と表現させてもらう。
さて、聖書はこの「神との結びつきを失った」出来事を「死」と呼ぶ(ローマ5:12)。神は、人が「神と異なる思い」を持ってしまうと、神との関係が崩壊し、「死」が入り込むことを誰よりもご存じだったので、そうならないようにと事前にこう言われていた。
「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)
アダムには「神と異なる思い」が何なのかを知る由もなかったので、神は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という表現で、「神と異なる思い」を持ってはならないことを教えられた。そのようなことをすれば「必ず死ぬ」と言われた。無論、この時点のアダムには「死」の意味など分かるはずもなかったが、それでもそのように注意された。注意することで、良くないことだと知ることはできるからだ。こうした注意をしたのは、悪魔が「神と異なる思い」を持ち込もうとしていたことを、神はご存じであったからだ。
ところが、人は悪魔の仕業で「神と異なる思い」を心に持ってしまい、すなわち食べてはならない物を食べてしまい、神が言われていたように死んでしまった。人は神との結びつきを失い、人が暮らす「土地」は「滅びの束縛」(ローマ8:21)を受けるようになった。無限から有限になった。つまり、「土地」はのろわれてしまった。だから神は、人にこう言われた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17)
人の「体」は「土地」から造られていたので、人の「体」も「滅びの束縛」を受けるようになり、土に帰る有限の姿になった。それで神は、続けて人にこう言われた。
「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)
こうして、人が暮らす世界も人も、無限から有限になった。「永遠のいのち」ではなく「死」に支配されるようになった。その世界は、「神の国」から悪魔が支配する「死の国」になった。これを、人の中に「死」が入り込むという。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12、新共同訳)。あるいは、人が「死んでいる」という。「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)。
これが、アダムとエバに逆さまの眼鏡を掛けさせた事件である。それは「死」という事件であり、神との結びつきを失った出来事を指す。このことで、人は「逆さまの眼鏡」を掛けるようになり、罪を犯すようになった。なぜそうなるのかは、「死」が何をもたらしたのかを考えればすぐに分かる。
(3)「死の恐怖」の奴隷
冷静に考えてみてほしい。神との結びつきを失うと人はどうなるかを。そうなると、人は自分の姿しか認識できなくなる。神に愛されている自分を認識できなくなり、自分は神に愛されない「ダメな者」になったという思いに駆られる。それは、自分の姿が「無価値」にしか見えなくなるということであり、言いようもない「不安」をもたらす。
それでアダムとエバは裸の自分に「恐れ」を覚え、いちじくの木の葉で覆い隠し、神が呼びかけても隠れてしまった。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」(創世記3:10)。
それだけではない。神との結びつきを失ったことで、人は有限の姿になった。「ついに、あなたは土に帰る」(創世記3:19)。有限になったとは終わりが来るということであり、すべてが消え去るということを意味する。だから有限の前ではすべては「無」となる。それは「恐怖」の何ものでもない。この「恐怖」は、終わりが来るまでに何ができるのかと「成果」を要求する。それで人は、「成果」で人の価値を計るようになった。要は、「うわべ」で人の価値を判断するようになった。
すなわち、神との結びつきを失う「死」によって「不安」や「恐怖」が生じ、それが物事を逆さまに見せる眼鏡になったのである。こうした「不安」や「恐怖」を「死の恐怖」といい、人は一生涯、「死の恐怖」の奴隷になったことで物事が逆さまに見える眼鏡を掛けるようになった。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)。「死の恐怖」が、逆さまに見せる眼鏡となって、自分の姿が「無価値」に見えるようになり、必死になって「うわべ」に価値を見いだすようになった。「成果」で人の価値を計るようになった。
そうなると、人は自分の価値を獲得しようと、競って「うわべ」を良くしようとする。競って「成果」を上げようとする。ここに争いが生じ、比較が生じる。生じれば、互いを愛せなくなる。こうして、「愛せよ」(ガラテヤ5:14)という神の律法に逆らう「罪」の構図が出来上がる。つまり、人が犯す「罪」の原因は、まさしく「死の恐怖」という「死のとげ」にある。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。「死の恐怖」による「逆さまに見える眼鏡」が、人を「無価値」に見せ、「うわべ」に価値を求める争いを引き起こさせ、罪を犯させている。
このように、「死」という事件が「死の恐怖」をもたらし、「逆さまに見える眼鏡」となった。その眼鏡のせいで、人は罪を犯すようになった。だが、「逆さまに見える眼鏡」は単に罪の行為を犯させるだけではない。「逆さまに見える眼鏡」は、神の言葉も逆さまに理解させてしまう。実際、パリサイ人や律法学者たちは神の言葉を逆さまに理解し、イエスを激しく迫害した。聖書はこうした状態を、心におおいが掛けられているという。
「かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです」(Ⅱコリント3:15)
そこでイエス・キリストは、私たちが物事を逆さまに見ていることを教え、そのおおいを取り除こうとされた。それは、「罪」を取り除くということを意味した。だから聖書に、「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」(Ⅰヨハネ3:5)とある。それが神の福音にほかならない。
では、どうすればおおいが取りのけられ、「罪」から解放されるのかを見てみよう。それはつまり、「逆さまに見える眼鏡」をどのように神は外させてくれるのかということだ。
【眼鏡を外す】
(1)眼鏡を外すとは
悪魔の仕業によってエバもアダムも「神と異なる思い」を持ってしまい、人は神との結びつきを失ってしまった。この世界は、「神の国」から「死の国」になった。「永遠のいのち」の支配から「死」の支配へと移り、人は「死の恐怖」の奴隷となった。それが、逆さまに見える眼鏡の起源である。
ということは、逆さまに見える眼鏡を外すというのは、「死の恐怖」から解放されることを意味する。そのためには、「死」を滅ぼすしかない。それは、次の事柄の達成を意味する。
第一に、神との結びつきを回復すること。「死」とは、神との結びつきを失うことを指すので、結びつきを回復しない限り「死の恐怖」は続いてしまう。神との結びつきを回復することを「救われる」というが、まずは救われることが求められる。
第二に、「死」をつかさどる悪魔を滅ぼすこと。「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブル2:14、15、新共同訳)。そうしないと、いくら人を救っても再び悪魔に欺かれてしまい、悲劇が繰り返されることになる。
第三に、「神の国」に連れ戻すこと。それは、有限になった姿を無限の姿に戻すことである。というのも、いくら神との結びつきを回復し、「死」をつかさどる悪魔を滅ぼしたとしても、すでに人の姿は悪魔の仕業で有限になってしまったので、その姿を無限の姿に戻さない限り「死の恐怖」からは解放されないからだ。すなわち、死ぬものが不死を着るとき、「死」は勝利にのまれ、逆さまに見える眼鏡は消滅するのである。
「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」(Ⅰコリント15:54)
「死ぬものが不死を着る」とは、血肉の体から朽ちない「御霊のからだ」に変えられることであり、それは「神の国」に連れ戻されることを意味する。
以上の事柄がすべて達成されれば、人は「死の恐怖」からは解放され、物事が正しく見えるようになる。逆さまに見える眼鏡が外れ、人は「罪」から解放される。では、それぞれの事柄をもう少し詳しく見てみよう。
(2)神との関係を回復する
人は生きているように見えても、神との結びつきがない中では死んでいる。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」(エペソ2:1)。そこで神は、人と神との結びつきを回復し、人を死人から生きる者にしようとされる。
それは神にしかできないので、神は人の「魂」に直接呼びかけられる。「わたしが生きる者にしてあげるから、この手に掴まりなさい」と。この呼びかけは、人の五感では意識できない。だが、神の「いのち」で造られた「魂」は、その呼びかけを聞くことができる。だから神の呼びかけを聞き、「助けてください」と、人の「意志」が応答するなら救われる。神との結びつきを取り戻すことができ、「死人」から「生きる者」になれる(参照:福音の回復(44))。そのことをイエスはこう言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)
これが救いであり、神との結びつきが回復することを意味する。こうして、一足先に「魂」は「死の国」から「神の国」に移り住む。「死」から「永遠のいのち」に移される。ゆえにイエスは、この話の直前でこう言われていた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)
「魂」が神との結びつきを取り戻し、「永遠のいのち」を持つようになったのなら、すなわちイエス・キリストを信じられるようになれば、「信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)、あとは無限の姿に変えられればよい。朽ちない「御霊のからだ」に着替えさせられ、「神の国」に行くのを待つだけとなる。
しかし、ここに事前準備が必要となる。それは悪魔を滅ぼし、「神の国」の安全を確保するという作業だ。そうしなければ、「死の恐怖」を消滅できない。それで神は、悪魔を滅ぼされる。
(3)悪魔を滅ぼす
逆さまに見える眼鏡を外すというのは、「死の恐怖」からの解放を意味する。そのためには、人を「死の国」から「神の国」(エデンの園)に連れ戻す必要がある。しかし、悪魔がいたのでは、いくら人を「神の国」に連れ戻しても、再び人はエバのように欺かれてしまうかもしれない。もしそうなれば、「神の国」は再び「死の国」となり、同じことが繰り返されてしまう。従って、人を「死の恐怖」から解放するためには、どうしても悪魔を滅ぼしておく必要がある。
そこで神は、人が神との結びつきを失って「死の恐怖」の奴隷になった直後、悪魔に対しこう言われた。彼(イエス)がお前の頭を砕き(滅ぼし)、お前は彼のかかとを砕く(十字架刑にする)と。
「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15、新共同訳)
神は悪魔に対し、イエスが十字架の死をもってお前を滅ぼすと言われたのである。この言葉どおり、イエスはご自分の死によって悪魔を滅ぼし、人を「死の恐怖」の奴隷から解放するための礎とされた(参照:福音の回復(49))。
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブル2:14、15、新共同訳)
ただし、神との関係が回復し、悪魔が滅ぼされても、「死の恐怖」の奴隷という現状が変わるわけではない。なぜなら、神の被造物はすでに滅びの束縛を受けてしまっていたからだ。それで、無限の姿に変えられるまでは「死の恐怖」の奴隷のままとなる。それまでは、被造物とともにうめき、ともに産みの苦しみをするしかない。
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:21、22)
だから聖書には、十字架で悪魔が滅ぼされても、悪魔との戦いがあることが記されている。だとしても、悪魔との戦いの意味は大きく変わった。悪魔の仕業で生じた「死の恐怖」だけが悪魔の実体となったので、悪魔との実質的な戦いは、有限の姿ゆえに生じる「死の恐怖」との戦いだけになった。それで十字架以降における悪魔との戦いは、イエスの御名で悪霊を追い出すという形から、御言葉の真理やイエスへの信仰をもって、恐れと戦うという形に変わった(エペソ6:11~18)。
いずれにせよ、悪魔は滅ぼされたので、「神の国」の安全は完全に確保された。これで神は、本格的に人を「神の国」に連れ戻すことが可能になった。では、「神の国」に連れ戻す作業を見てみよう。
(4)「神の国」へ連れ戻す
この作業は、有限の体を無限の体に変えることを指す。血肉の体から、朽ちることのない「御霊のからだ」に着替えさせることを指す。
「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(Ⅰコリント15:44)
終わりのラッパともに、一瞬にして人は朽ちない「御霊のからだ」に着替えさせられる。朽ちないものによみがえり、「神の国」に連れ戻される。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント15:52)
こうして、朽ちないものを着せてもらうことで、「死」は完全に勝利にのまれてしまう。
「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」(Ⅰコリント15:54)
「死」が勝利にのまれてしまえば、「死の恐怖」の奴隷から解放される。それにより、「逆さまに見える眼鏡」は消滅する。それは、人が「罪」から完全に解放されることを意味する。人は自分が「ダメな者」ゆえに罪を犯すと思っているが、「逆さまに見える眼鏡」のせいで罪を犯してしまうのである。「死の恐怖」の奴隷ゆえに、見える安心をむさぼるという罪を犯してしまう。ゆえに、「死の恐怖」の奴隷から解放されれば、罪を犯したくとも犯せなくなる。完全に罪から解放される。
ということは、「死」が勝利にのまれてしまうまでは「死の恐怖」の奴隷のままなので、罪を犯し続けることになる。「神の国」に連れ戻されるまでは、人は「逆さまに見える眼鏡」のせいで、罪に苦しめられることになる。
そこで神は、「死の国」で暮らす間であっても、「死の恐怖」による眼鏡を砕き、少しでも正しく見えるようにしてくださる。少しでも、罪に苦しめられないようにしてくださる。そのことで、神への信頼を築かせようとされる。その「信頼」が「神の国」に移り住む際の宝となるので、少しでも宝を蓄えさせておこうとされる。
「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです」(Ⅰヨハネ2:28)
ならば「死の国」で暮らす間、どうやって「逆さまに見える眼鏡」を砕き、少しでも正しく見えるようにしてくれるのだろうか。最後に、そのことを見てみよう。
【眼鏡を砕く】
(1)罪に気づかせる
「死」が入り込んで「死の恐怖」の奴隷となって以来、人は神の栄光を現しているはずの自分が、なぜか「無価値」にしか見えなくなった。逆さまに見えるようになってしまった。それで人は必死になって価値を獲得しようとする。「うわべ」を良くすることで自分の価値を手にし、そのことで周りから愛されようとする。そうした眼鏡を掛けているから、人は「うわべ」が悪い者は愛さない。その筆頭は「罪人」である。「罪人」を見ると、激しく嫌う。
では、この「逆さまに見える眼鏡」を砕くにはどうすればよいだろう。それには、自分が「無価値」ではないことに気づくしかない。神の目には高価で尊いことを知ればよい。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
そこで神は、人が「無価値」ではなく、高価で尊いことを知るようにされる。ただし、「うわべ」を良くさせることで自分が「無価値」ではないことを知るようにはされない。神の律法を行えるようにすることで知るようにはさせない。そんなことをすれば、逆さまに見える眼鏡を支援することになるからだ。
そうではなく、神は「罪人」であることを人に知らしめ、「罪人」であっても神に愛されることを知るようにさせる。そうすれば、「罪人」など愛されないとする眼鏡も砕かれ、人は自分が「無価値」ではないことを知るようになる。
そこで神は、眼鏡のせいで「うわべ」を着飾り、自分は「罪人」なんかではないと思っている人たちに、何としても罪に気づかせ、「罪人」だと認識できるようにする。それで聖書は、例外なくすべての人を罪の下に閉じ込めてしまった。「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました」(ガラテヤ3:22)。例えば、イエスは聖書を通してこう言われた。
「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:22)
イエスは、「能なし」「ばか者」と言って腹を立てる者は、最高刑を受けるべき「罪人」だと断言された。この直前で「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(マタイ5:21)と言い、「能なし」「ばか者」と言うことは、人を殺すのと同じだと言われた。であれば、私たちは一体どれだけの人を殺してきたことになるだろう。さらにイエスは、こう言われた。
「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:27、28)
心で情欲を抱けば、姦淫したのと同じだと言われた。これでは一体誰が、自分は正しい者だと言って神の前に立てるのだろう。一体誰が、自分は罪など犯していませんと言えるのだろうか。そのようなことが言える者がいれば、それこそがうそつきであり、罪を指摘された神を偽り者とするのである。
「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」(Ⅰヨハネ1:10)
このように、神は罪に気づかせようとされる。罪に気づけば、人は逆さまに見える眼鏡を掛けているので、自分など愛されるはずもないという思いに打ちのめされる。罪深さに気づけば気づくほど、その眼鏡によって絶望へと追い込まれる。それこそが、神の狙いとなる。なぜなら、そうなると人は、神にあわれみを乞うようになるからだ。こうして人は、神が望むステージへと進む。
(2)神にあわれみを乞う
聖書は、自分が「罪人」だと分かれば、その罪を言い表してみよという。そうすれば、神が罪を赦(ゆる)してくださるので、すなわち無条件で愛してくれるので、逆さまに見える悪の眼鏡から私たちはきよめられていくという。これが、神が望むステージである。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
これは愛されるはずもない者が愛されるという話であり、このことが本当に体験できたなら、愛されるはずもないとしてきた眼鏡は砕かれるしかない。イエスはそうなることを知っていたので、「罪人」と呼ばれる人たちと交わり、彼らの罪を赦し愛された。その中の一人に、取税人のザアカイがいた。
ザアカイは周りからは嫌われ、愛されることなどなかった。ところが、イエスは彼の家に行かれた。それを見た人たちは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」(ルカ19:7)と言ってつぶやいた。ザアカイにしてみると、愛されるはずもないと思っていた自分が、あの人気者のイエスの訪問を受けるのだから、それは喜びの何ものでもなかった。ザアカイは生まれて初めて、こんな者でも愛されるのかという体験をしたのである。そこで彼は、イエスにこう言った。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(ルカ19:8)
ザアカイは、何と自分の罪を神の前に言い表したのである。その告白は、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」という、彼の魂の叫びでもあった。イエスはこれを聞き、その罪が赦されたことを教えるために、救いが彼の家に来たと言われた。
「きょう、救いがこの家に来ました」(ルカ19:9)
こうして、逆さまに見せていたザアカイの眼鏡は砕かれ、物事が正しく見えるようになった。自分が「無価値」な者ではなく、神に愛される非常に「良き者」であることが見えるようになった。イエスの時代、同様の体験をした者たちは大勢いた。
このように、神は愛をもって罪に気づかせ、神にあわれみを乞うようにさせる。神の前で罪を言い表すようにさせ、その罪が赦されるという体験をさせる。そのことで、人は神に無条件で愛されている自分を知るようになり、逆さまに見える眼鏡が砕かれていく。それでイエスは、譬えの中でこう言われた。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(ルカ18:13、14)
だが、逆さまに見える眼鏡が本当の意味で砕かれるには、神に無条件で愛されている自分を知るだけでは足りない。神に愛されている自分を自分とし、それを受容する必要がある。これが「死の国」の中で、少しでも正しく見えるようにするための最終仕上げとなる。最後に、その話をしよう。
(3)自分を受容する
人は、どうにもならない罪に気づけば神にあわれみを乞う。そうすれば罪が赦される自分を知る。神に無条件で愛されている自分を知る。問題は、それを知ったとき、神に愛されている自分を自分として受け入れられるかである。これを「自分を受容する」というが、それができなければ逆さまに見える眼鏡は砕かれない。
すると、「自分を受容する」ことなど難しくないと思うだろう。ところが、それこそが難しいのである。「死の恐怖」が、神に愛されている自分を自分として受け入れることを、強力に邪魔してくるから、それこそが最も困難な挑戦となる。そう言われても納得がいかないだろうから、そのことを説明しよう。
「死の恐怖」は、「お前なんか、愛されるはずがない」と、最大限の「恐れ」をぶつけてくる。「本当に罪が赦され、神に愛されているのか」と、最大限の疑念を抱かせてくる。そのため、罪が赦され神に愛されていると知っても、愛されている自分を、自分として受容することができない。やはり自分が「無価値」に見え、自分を愛せないのである。
だから人は、神に愛されていることを知っても、周りから良く思われる自分になろうとする。ありのままの自分を拒否し、周りの期待に応えられる自分になり、それを自分として受け入れようとする。神に愛されていることを知っても、人が自分のことをどう思っているかが気になり、人から良く思われる自分を目指してしまう。イエスが御言葉をふさぐ敵と言われた、「この世の心づかい」(マタイ13:22)に生きてしまう。そうして、人から良く思われる自分を、自分として受け入れようとする。そのことは、自分の胸に手を当ててみればよく分かるだろう。
こうした人の行動は、ありのままの自分を受容することが、いかに困難であるかを物語っている。人は意識できないだけで、潜在意識の中では、ありのままの自分を受容することに最大限の恐怖を覚えていることを物語っている。
従って、罪が赦される体験を通して神に受容されている自分を知り、その自分を自分として受容することは最も困難な挑戦となる。そこには、真の「勇気」が求められる。だが、その「勇気」が逆さまに見える眼鏡を砕き、神への信頼を築かせ、生きることへの希望をもたらす。ならば、その「勇気」はどのように持てばよいのか。
それはただ、神に助けを乞うしかない。創世記のヤコブが一晩中、助けを乞うたように、神にすがるしかない。そうすれば、神が「勇気」を下さる。ヤコブも神に祈ることで「勇気」を得、神に愛されている自分を受容できた。それでヤコブの肉の眼鏡は砕かれ、それまで恐ろしく見えていた兄エサウが、愛したい兄に見えるようになった(創世記32:24~33:4)。
このように、最後は神にすがることで「勇気」をもらい、神に愛されている自分を受容するしかない。ありのままの自分を肯定し、受け入れるしかない。そのことが、逆さまに見える眼鏡を砕いてくれる。砕かれれば、それに応じて人を愛せるようになる。「愛せよ」(ガラテヤ5:14)に逆らう罪からは、きよめられていく。
見てきたように、私たちは「死の国」で、物事が逆さまに見える眼鏡を掛けて暮らしている。そのせいで、「愛」は「憎しみ」へと走り、「信仰」は「迷信」へと走った。「平安」も「失望」に変わった。すべてが逆さまに動き、それが人の罪となった。
それゆえ神は、人を「死の国」から「神の国」に連れ戻そうとされる。連れ戻されるまでの間も、少しでも正しく見えるようにと、神は逆さまに見える眼鏡を、十字架の愛によって砕いてくださる。逆さまに見える眼鏡が、愛されるはずもないとする者を愛し、眼鏡を砕いてくださる。砕かれれば、今までは患難にしか見えなかった出来事も、「希望」として見えるようになる。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ5:3、4)
これが生きた神の福音である。それは逆さまに見える眼鏡を外させ、すなわち顔のおおいを取りのけ、神の栄光の姿が見えるようしてくれる福音にほかならない。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)
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