本当の苦しみとは、一体何なのだろう。人は病気になったり、人間関係に行き詰まったり、経済的に行き詰まったり、失敗したり、天変地異に見舞われたり、大切なものを失ったり、そうした困難な出来事に遭うと苦しみを覚えるが、それが本当の苦しみなのだろうか。確かに、それらの困難は苦しい。しかし、それが本当の苦しみなのだろうか。そもそも、どうして人は苦しみを覚えるのだろう。
一つはっきりしていることは、人は苦しみの意味を知らなければ、苦しみを覚えることなどないということだ。チョコレートを甘いと感じるのは甘さとは何かを知っているからであり、脳が甘さの意味を知らなければ、甘さを覚えることなどないのと同じである。つまり、人が苦しみを覚えるということは、心が苦しみの意味を十分に把握しているということになる。
ならば、心が把握しているという「苦しみ」は、一体何なのだろう。そもそも「苦しみ」を、人の心は“いつ”把握したのだろうか。一体、どのような出来事に出遭って「苦しみ」を把握するようになったのだろう。それこそが「苦しみ」の「祖」であり、「本当の苦しみ」になる。それが分からなければ、神からの「本当の慰め」も見えてこない。
そこで今回のコラムは、「本当の苦しみは何?」を論じてみたい。それが分かれば、神からの「本当の慰め」も見えてくるので、後編は「本当の慰めは何?」を論じてみたい。なお、御言葉の引用は記載のない限り新改訳聖書第3版を使用する。
【本当の苦しみ】
(1)基本的な話
初めに、基本的な話をしておく必要がある。それは、冒頭でも述べたように、知らないことは、何が起きても知らないということだ。把握できないことは、何が起きても把握できないのである。当たり前のことだが、これが押さえておくべき基本的な話となる。
例えば、光は波であるが、人の目が把握できる波の長さはおおよそ400nm(ナノメートル:10億分の1メートル)から800nmぐらいまでで、それ以外の波は把握できない。同じように、何かを把握するには、その事柄を把握できるということが大前提になる。従って、人が苦しみを覚えるということは、苦しみの意味を知っているということが大前提になる。
苦しみの意味を知っているのは「魂」である。これについては後述するが、「魂」には、いまだ解決していない「困難」がある。その「困難」の把握が「苦しみ」の祖であり、人が「困難な出来事」に遭う度に苦しみを覚えるのは、「苦しみ」の祖があるからである。「困難な出来事」は、「魂」が把握している「困難」の「苦しみ」を見せる眼鏡にすぎない。こうした「苦しみ」の祖を、ここでは「本当の苦しみ」と呼ぶことにする。
このように、知らないことは、何が起ころうとも知り得ないことを最初に押さえておいてほしい。苦しみを知っているから、苦しみを覚えるのである。人は病気になったり、人間関係に行き詰まったり、経済的に行き詰まったり、失敗したり、天変地異に見舞われたり、大切なものを失ったり、そうした「困難な出来事」に遭うと苦しみを覚えるが、それは、すでに抱えている「本当の苦しみ」の“影”にすぎないのだ。
すると、人は言うだろう。「本当の苦しみ」など知らないと。確かに、人はそれを意識できない。だが、すでに述べたように、「魂」は十分に知っている。そのことを続けて説明しよう。
(2)「魂」は知っている
20世紀になると心理学が発展し、人には意識できる「顕在意識」と、意識できない「潜在意識」があるということが分かった。そして、意識できない「潜在意識」は、意識できる「顕在意識」にさまざまな指示をしてくることが分かった。人が困難を通して覚える「苦しみ」も、実は「潜在意識」からの指示による。このことを、さらに見てみよう。
人は「体」と「魂」から出来ていて、この世界で起きた経験は「体」の中に記憶として蓄積される。同時に、霊である神との間で起きた経験は、霊である「魂」の中に記憶として蓄積される。そして、「体」の中に蓄積された記憶は時間と共に思い出せなくなり、「潜在意識」となる。「魂」の中に蓄積された記憶は霊的なものなので、有限しか認識できない人においては、初めから認識できない「潜在意識」となる。
聖書は、「体」の中に蓄積された記憶を「肉の思い」と呼び、「魂」の中に蓄積された記憶を「御霊の思い」と呼ぶ。「体」に蓄積された記憶を「肉の思い」と呼ぶのは、人の「体」は「死」に支配されていて、そのことの恐怖から「肉の安心」を求めてしまうからだ。「体」には、神による安心ではなく、肉による安心の経験が蓄積されるので「肉の思い」と呼ばれる。
それに対し、「魂」の中に蓄積された記憶を「御霊の思い」と呼ぶのは、人の「魂」は神の「いのち」で造られているからだ。「魂」は神の思いを映し出す鏡であり、神との間の霊的な出来事を蓄積するので「御霊の思い」と呼ばれる。ちなみに「良心」と呼ばれるのは、「魂」に蓄積された神の律法を指す。
「潜在意識」の世界には、この「肉の思い」と「御霊の思い」とが潜んでいる。両者は目指す方向が異なるので、互いに「意志」の決定をめぐって争う。「肉の思い」は「肉の安心」を求め、「御霊の思い」は「神の安息」を求めて争う。それで、人は何かを選択するときに心が揺れ動く。「顕在意識」の下には、こうした「潜在意識」が存在するのである。そのさまは、「氷山」と同じである。視界に映る「氷山」の下には、巨大な氷の塊が存在するからだ。
先に、人は「困難な出来事」に遭うと苦しみを覚えるが、その苦しみは「本当の苦しみ」の“影”にすぎないという話をした。その「本当の苦しみ」を把握しているのが、「魂」なのである。それは「潜在意識」なので、人には分からない。だから、「本当の苦しみ」など知らないと言うのは正しい。つまり、人の心のことは、その人のうちにある霊である「魂」のほかには、だれも知り得ないということだ。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。(Ⅰコリント2:11)
このように、「困難な出来事」に対して「顕在意識」が苦しみを覚えるのは、霊である「魂」が「本当の苦しみ」を知っているからなのである。人の土台である「魂」は「本当の苦しみ」を十分に把握しているので、すなわち本当の「困難」を知っているので、人が「困難な出来事」に出遭うと苦しみを「顕在意識」に訴えてくる。それで、人は「苦しみ」を覚える。譬(たと)えて言うなら、甘いという味を脳が覚えたなら、それが含まれる物を口にすれば、脳は「甘い」と訴えてくるのと同じである。
ならば、「魂」が訴えてくる「本当の苦しみ」とは何なのだろうか。それを解き明かすには、「魂」における「真実な願望」を知る必要がある。なぜなら、「真実な願望」が叶わないことが「本当の苦しみ」となるからだ。そこで、「真実な願望」とは何かを探り、「本当の苦しみ」を特定してみよう。
(3)「真実な願望」と「本当の苦しみ」
「真実な願望」を知るには、人の造りを正確に押さえておく必要がある。そこで聖書を見ると、人は神に似せて造られたとある。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」(創世記1:26、新改訳2017)。その神は「われわれ」とあるように、三位一体の神を指し、人はその神に似せて造られたのである。さらに聖書は、神に似せるために、人には三位一体の神の「いのち」が吹き込まれたことを教えている。
神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記2:7)
ここでいう「いのちの息」の「いのち」は複数形の単語で、三位一体の神の「いのち」を現している。そして、「いのちの息」の「息」は「魂」とも訳せる。従って、人の「魂」は神の「いのち」で造られたということになる。となれば、人は紛れもなく神(キリスト)の部分となるので、聖書は人のことを次のようにも教えている。
私たちはキリストのからだの部分だからです。(エペソ5:30)
人がキリストの部分であれば、「人の本質」と「神の本質」は同じということになる。ならば、「神の本質」はどうなっているのだろう。それが分かれば、「人の本質」から発せられる「真実な願望」が見えてくる。
結論から言うと、「神の本質」は「愛」である。「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)。「愛」とは「結合」であり、「一つ思い」となる関わりを指す。だから「父」と「子」と「聖霊」は、それぞれが異なる主体であっても「一体性」を形成する。互いが互いの中で存在し、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように・・・」(ヨハネ17:21)、そのことで一つとなり、「わたしたちが一つであるように」(ヨハネ17:22)、互いは異なる主体であっても「ひとりの神」となる。こうした関わり方を「愛」というが、それが「神の本質」である。
人は、そうした神に似せて造られたので、人にも神と同じように、「一つ思い」となって「結合」するという本質がある。ゆえに、人の「魂」は神を切に求める。
私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。(イザヤ26:9)
人は神と「一つ思い」となって結びつくことを求めるので、神を介して、人とも「一つ思い」になることを求める。これを、神を愛し、人を愛するという。それが「人の本質」となるので、このことが神の戒めになっている。
イエスは、こうした「人の本質」をご存じだったので、父なる神にこう祈られた。
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17:22)
この「人の本質」から発せられる、神を愛し、人を愛するということが、人の「真実な願望」となる。「魂」が、神と「一つ思い」となって結びつけることが「真実な願望」となる。
「真実な願望」が特定できれば、「本当の苦しみ」も確定する。それは、「魂」が神を慕い求められなくなるということだ。神と「一つ思い」になれないことが、「本当の苦しみ」となる。それは同時に、人とも「一つ思い」となれないことを意味するので、聖書は「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Ⅰヨハネ4:20)と教えている。
このように、人は神と同じ本質を持つように造られた。その本質は、「一つ思い」で結びつく「愛」であった。ならば、私たちは神と「一つ思い」で結びついているだろうか。兄弟を愛せているだろうか。答えは、「NO!」である。ということは、「魂」は神を慕い求めることができないという「困難」の中で暮らしているということになる。この「困難」こそ、「本当の苦しみ」の正体なのである。
そこで「魂」は、人が何らかの「困難な出来事」に出遭うと、同じ「困難」ということで、「本当の苦しみ」を「顕在意識」に訴えてくる。それは、「神と『一つ思い』で結びつきたい!」という訴えである。その訴えを、人は「困難な出来事」に出遭うと「苦しみ」として覚える。
逆に言うと、人の土台となる「魂」が神と「一つ思い」の中にあれば、「魂」には何の「困難」もなく「神の安息」しかない。その場合、人はどのような困難な出来事に出遭っても「苦しみ」を覚えることなどない。覚えるのは「平安」である。だから聖書は、神と「一つ思い」を手にした信仰の人たちは、次のような告白をしていたと教えている。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)
彼らは何が起ころうとも、神と「一つ思い」で暮らす「神の国」を見て喜んでいたという。苦しんでいたとは言っていない。では、どうして神を慕い求められなくなるという「困難」が起き、「本当の苦しみ」が生じるようになったのか、その経緯を見てみよう。
(4)「本当の苦しみ」の起源
人は、神に造られた当初、三位一体の神が「一つ」であるように、神と「一つ」であった。神と「一つ思い」を共有する中で暮らしていた。ところが、人は悪魔の仕業で罪を犯してしまい、神との間にあった「一つ思い」の関係が崩壊した。神との結びつきを失ってしまったのである。神との結びつきを失うことを「死」というが、人の中に「死」が入り込んでしまった。それ以来、「魂」は神を慕い求めることができなくなった。ここに、人が抱える「本当の苦しみ」の起源がある。この経緯を、もう少し詳しく説明するとこうなる。
神との結びつきを失う「死」は、アダムの「罪」によって入り込んだ。「罪によって死が入り」(ローマ5:12)。「罪」とは、「神と異なる思い」を持つことを意味するが、アダムは神に似せて造られたので、アダムの中から「神と異なる思い」(罪)など出てくるはずもなかった。ならば、アダムが犯した「罪」、すなわち「神と異なる思い」はどこから来たというのか。
それは、悪魔から来た。悪魔が蛇を使ってエバを欺くことで、エバの中に持ち込まれ、「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(Ⅱコリント11:3)、そしてエバからアダムの中に持ち込まれた。それで「食べても死なないから大丈夫」という「神と異なる思い」を、アダムは心に持ってしまった。その結果、食べてはならないと言われていた実を食べるに至った。これを、アダムが罪を犯したという。
悪魔に欺かれたとしても、人は「神と異なる思い」を持ってしまった。いったんそうなると、神との間にあった「一つ思い」の関係はもう維持できない。できないので、人は神との霊的な結びつきを失ってしまった。それは人の「死」を意味した。なぜなら、人は神の部分として造られていたので、神との霊的な結びつきを失えば生きていけないからだ。こうして、人の中に「死」が入り込んだ。悪魔の仕業でアダムが「神と異なる思い」を持つという罪が世に入り、その罪により「死」が入り込んだのである。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。(ローマ5:12、新共同訳)
ここで重要なことは、「死」は罪に対する神からの罰ではなく、あくまでも「神と異なる思い」を食べたことに伴う出来事であったということだ。それで神は、「神と異なる思い」を食べると必ず死ぬと注意されていた。「それを取って食べるとき(神と異なる思いを食べるとき)、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)(参照:福音の回復(35))。
このように、アダムの罪により「死」が入り込み、すべての人は死んでしまった(神との結びつきを失ってしまった)。「アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)。その結果、「魂」は神を慕い求められなくなるという「困難」を抱えるようになり、それが「本当の苦しみ」となった。
ならば「困難な出来事」に遭うと、どうして「魂」は自らが抱える「困難」(本当の苦しみ)を「顕在意識」に訴えてくるのだろう。それを知るには、「困難な出来事」の起源を調べる必要がある。調べると、そこには同じ「困難」というだけではなく、さらに深いつながりがあることが分かる。
(5)「困難な出来事」の起源
神との結びつきを失う「死」のせいで、人の「魂」は神を慕い求められなくなるという困難を抱えるようになった。実は、「死」がもたらした困難は、それだけではなかった。人が神との結びつきを失ったことで、人を生かすために造られた世界もまた、神との結びつきを失い「滅びの束縛」(ローマ8:21)を背負うことになった。そのことが原因でさまざまな天変地異が起こるようになり、人は別の困難も背負うようになった。そこで、神はアダムにこう言われた。
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。(創世記3:17、18)
そして、人の体は「滅びの束縛」を受けることになった「土地」から造られていたので、体もそれに連動し、「滅びの束縛」を受けることになった。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」(創世記3:19)。その結果、人の体は老化や病気という困難を覚えるようになり、最後は「肉体の死」という困難を迎えることになった。「死」がもたらした困難は、それだけではなかった。まだ続きがあった。
「死」は、「魂」が神を慕い求められなくなるという困難、天変地異という困難、病気という困難、「肉体の死」という困難をもたらしたが、それは言いようもない恐怖にほかならない。こうした恐怖は「死」がもたらしたことから、「死の恐怖」という。つまり、人は一生涯、「死の恐怖」の奴隷になってしまったのである。「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)。そして、この「死の恐怖」の奴隷という「死のとげ」が、「罪」と呼ばれる人為的な困難まで引き起こすようになった。「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)。どうしてそうなるのかを、簡単に説明しよう。
考えてみてほしい。人は「死の恐怖」に耐えられるかを。それは不可能である。だから、「死の恐怖」から何としても目を逸らそうとする。それが、さまざまな「肉の安心」を求めるという行動になり、さまざまな「欲」をむさぼることに結びつく。すると「欲」がはらみ、罪の行為へと発展する。こうして、神との結びつきを失った「この世」(死)から、罪の行為に発展するさまざまな「欲」も出るようになり、人為的な困難まで引き起こすようになった。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(Ⅰヨハネ2:16)
このように、悪魔の仕業による「死」は、さまざまな困難をもたらした。その筆頭が、「魂」が神と「一つ思い」で結びつくことができなくなるという困難である。この困難が「潜在の困難」であり、「本当の苦しみ」となった。さらに「死」は、天変地異という困難、病気という困難、「肉体の死」という困難、罪という困難、こうした「顕在の困難」ももたらした。すなわち、人が覚える困難はすべて、神との結びつきを失う「死」から生まれてきたのである。
ということは、「困難」はみな「死」から生まれた兄弟であり、そこには「死の恐怖」という同じ血が流れている。すべてはつながっていて、そこには一体性がある。それで「顕在の困難」に出遭うと、「潜在の困難」である「本当の苦しみ」が顔を覗かせてくる。というより、「顕在の困難」が眼鏡となって、「魂」が訴えている「潜在の困難」が見えるようになる。あるいは、「顕在の困難」がイヤホンとなって、「潜在の困難」となる「本当の苦しみ」が聞こえてくる。
つまり、人が「顕在の困難」に苦しみを覚えるということは、かれた谷で鹿が水を求めるように、「魂」も神を慕い求め、渇くことがない水をいつ手にできるのかと、その苦しみを訴え続けているということなのである。
涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。(詩篇42:2、3、新共同訳)
では、「本当の苦しみ」のまとめをしよう。
(6)「本当の苦しみ」のまとめ
人は病気になったり、人間関係に行き詰まったり、経済的に行き詰まったり、失敗したり、天変地異に見舞われたり、大切なものを失ったり、そうした解決が難しい出来事に遭うと苦しみを覚える。だが、その苦しみは「魂」の訴えから来ていた。神と「一つ思い」の関係が築き上げられないという訴えであった。神と「一体性」が持てないことの困難を、「魂」は訴えていた。これが人の覚える苦しみの裏にあるので、それを「本当の苦しみ」という。
しかし、人は「本当の苦しみ」を知らない。有限しか把握できない「顕在意識」では、霊である「魂」の訴えは知りようがない。というよりも、人の心のことは、人の霊だけが知り得る。「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう」(Ⅰコリント2:11)。そうであっても「魂」は「顕在意識」に訴えてくるので、困難に遭う度に人は苦しみを覚える。だが、人は自分が覚える「苦しみ」の意味に気付かない。
そこでイエスは、「本当の苦しみ」が何であるかを教えるために、ご自分が一体何に苦しみもだえるかを見せられた。それは、十字架の「死」に対してであった。聖書によると、イエスは十字架の「死」を迎えるに当たり、苦しみもだえて、切に祈られたという。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:44)
イエスにおける「死」とは、「父なる神」と、「聖霊なる神」との「一体性」が失われることを指していた。それでイエスは、十字架で死ぬ最後にこう叫ばれた。
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)
「わが神、わが神」とは、「父なる神」と「聖霊なる神」を指している。「お見捨てになったのですか」とは、イエスが神との結びつきを完全に絶たれたことを鋭く言い表している。そのことで、イエスは真の「死」にあずかったことを自らが証しされた。
すなわち、イエスにおいての「本当の苦しみ」は、「父なる神」と「聖霊なる神」との「一体性」が失われる「死」であった。イエスは、神との「一体性」が失われること以上の苦しみなど存在しないことを、自らがその苦しみを背負うことで教えられたのである。それはつまり、私たちの「魂」も苦しみもだえているということである。「魂」は、神との「一体性」が持てないので「苦しみもだえて」、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神を慕いあえいでいるということなのである。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(詩篇42:1)
これが、人の抱えている「本当の苦しみ」である。「顕在の困難」に遭う度に覚える苦しみの正体は、まさしくこれである。つまり、「本当の苦しみ」が本体であり、人が覚える苦しみは本体の“影”にすぎない。だから、いくら“影”を解決したところで本体を解決しなければ、何かある度に“影”は出没し、苦しみを覚えてしまう。それでイエスは、次のように言われた。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
イエスは、神を第一に求める選択をすれば、苦しみはすべて解決すると言われた。「魂」が神と「一つ思い」になれないことが苦しみを覚える本体になっているから、「神の国とその義とをまず第一に」求めさえすれば、苦しみの問題は解決すると言われたのである。
このことが分からないと、神が私たちにしてくださる「本当の慰め」はまったく見えてこない。ただ「顕在の困難」が苦しみのすべてだと思ってしまうと、神がされる「本当の慰め」は、「顕在の困難」の解決だけになってしまう。そうなると、祈っても「顕在の困難」が解決しなければ、神につぶやくことになる。
ならば、神はどのように「魂」が抱えている「本当の苦しみ」を解決してくれるのだろう。どうやって、「魂」が神と「一つ思い」で結ばれるようにしてくれるのだろうか。そのために神がされる手段が、神からの「本当の慰め」となる。後編は、そうした神からの「本当の慰め」を見てみよう。
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