神が人にされる「本当の慰め」は、人が抱えている「本当の苦しみ」を解決することに向かう。ゆえに、「本当の苦しみ」が分からなければ「本当の慰め」も見えてこない。そこで、前編では「本当の苦しみ」とは何かを調べた。それは、「魂」は神と「一つ思い」の関係を切望しているのに、その関係が築けないという「困難」であった。この「困難」は、アダムが罪を犯して以来、すべての人が神との結びつきを失うという「死」を背負うようになったことで始まった。「アダムにあってすべての人が死んでいるように」(Ⅰコリント15:22)
そこで神は、最初のステップとして、神との結びつきを回復させてくれる。次のステップとして、神との結びつきが回復した人たちをクリスチャンというが、神はクリスチャンとの間に「一つ思い」の関係を築こうとされる。そうやって、神は人の抱える「本当の苦しみ」を解決してくださる。ならば、神はクリスチャンにどう働き掛け、「一つ思い」の関係を築けるようにしてくださるのだろう。そのための手段が、「本当の慰め」の実際となる。では、その手段を丁寧に見ていこう。
【本当の慰め】
(1)「肉の安心」
神は、「本当の苦しみ」から人を救い出そうとされる。ところが、それを邪魔する敵がいた。それは神に反抗する「肉の思い」である。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです」(ローマ8:7)。「肉の思い」は、人が神との結びつきを失う「死」を背負うようになったことで誕生した。人は「死」を背負い「死の恐怖」の奴隷になったことで、必死になって「肉の安心」をむさぼるようになり、そのことの記憶が「体」に蓄積され、それが神を求めない「肉の思い」になった。
この「肉の思い」が人の「体」に住み着いてしまったので、神との結びつきが回復したからといっても、「肉の思い」は存在し続ける。そのため、神との結びつきが回復したクリスチャンになったので、これでようやく「魂」が神と「一つ思い」の関係を築けると思っても、「体」に住み着いてしまった「肉の思い」が反抗してくるのである。では、どのように反抗してくるのかを見てみよう。その様子が分かれば、神が何をされるのかも見えてくる。
「魂」は、神との「一体性」が持てないことに苦しみもだえている。その苦しみを、耐えず訴え続けている。ただし、それは「潜在意識」での出来事になるので、「顕在意識」では訴えの中身を把握できない。そうであっても、訴えを漠然と感じ取ることならできる。それが人の覚える「苦しみ」であったり、「空しさ」であったりする。そうした「つらい感情」として、人は「魂」の訴えを感じ取ることができる。「顕在意識」が知り得るのはそこまでであり、それが神との「一体性」を訴えていることまでは分からない。
とはいえ、「魂」の訴えを「つらい感情」としては感じ取れるので、それが続くとどうなるだろう。絶望へと追い込まれ、どうにもならなくなり、神に助けを乞う機会が訪れる。その機会を生かせば、人は神に無条件で受け入れられる自分と出会い、人の「意志」は神を慕い求める選択が容易になる。そうなれば、「魂」は神との「一体性」へと向かっていき、「神の安息」が訪れる。しかしそれは、「肉の安心」を求める「肉の思い」としては面白くない。
そこで「肉の思い」は、人が感じ取る「つらい感情」を「肉の安心」で打ち消そうとする。「肉の安心」で、人の覚える「苦しみ」や「空しさ」に蓋をしようとする。例えば、人からよく思われる評判、健康な体、お金、より良い成果、人の同情、快楽などをむさぼらせてくる。それを「肉の安心」とさせ、「本当の苦しみ」に蓋をしてしまう。自分の「魂」の痛みに気付かなくさせる。そうなれば、人の「意志」は神を慕い求める選択などしなくなるからだ。
このように、「肉の思い」の反抗は、「肉の安心」をむさぼらせることにこそある。そうやって、「魂」の痛みを聞こえなくさせてしまう。しかし、そうした「肉の安心」にもアキレス腱がある。それは困難な出来事にほかならない。困難な出来事は、「肉の安心」を吹き飛ばしてしまう。というより、「肉の安心」を吹き飛ばしてしまう出来事を「困難」という。だから困難に出遭うと、「魂」の訴えが聞こえるようになり、人は苦しみを覚える。困難な出来事によって「肉の安心」の蓋が外れるので、「魂」の痛みを感じ取れるようになる。
ちなみに前編では、困難に遭うことで苦しみを覚えるのは、それは「本当の苦しみ」と同じ「死」という根を持つからだと説明したが、実は、困難が「肉の安心」を吹き飛ばしてしまうからでもある。いずれにしても、「肉の安心」のアキレス腱は困難な出来事となる。だから神の慰めは、人が困難な出来事に遭えるよう助ける。それで、「肉の安心」を壊そうとされる。
これは、まったくもって信じがたい話だろう。人が困難な出来事に遭えるよう神が助けるなどという話は。しかし、それは真実である。神は困難な出来事を使い、「肉の安心」を取り除こうとされる。ならば、神は具体的に何をされるというのだろうか。その中身が分かれば、この信じがたい話にも納得がいくことだろう。
(2)「肉の安心」を取り除く
人の本当の苦しみは、「魂」が神と「一つ思い」で結ばれないことにある。これは、神との結びつきを失う「死」がもたらしたので、この苦しみを「死の恐怖」ともいう。そこで「魂」は、事あるごとに自らの苦しみを自らの「意志」に訴える。しかし、「肉の思い」はその訴えが「意志」に届かないように、「肉の安心」を「意志」に求めさせ、それで覆い隠してくる。
だが、困難な出来事が「肉の安心」を打ち壊す。ただし、「肉の安心」を打ち壊す困難な出来事は3つに分類される。1つ目は「肉の安心」を打ち壊す見た目の出来事であり、それを「患難」と呼ぶことにする。天変地異に見舞われたり、重病になったりといったものがそれに当たる。そうした「患難」に遭えば、今まで蓄えてきた「肉の安心」も吹き飛んでしまう。
2つ目の困難な出来事とは、「罪責感」である。どうにもならない罪に気付き、強い「罪責感」を抱けば、「肉の安心」など吹き飛んでしまう。そして3つ目は、「弱さ」の自覚である。自分の「弱さ」を思い知れば、「肉の安心」など吹き飛んでしまう。このように、困難な出来事が「肉の安心」を打ち壊すという場合の困難には3つある。
そこで神は、第1に「患難」を静観される。第2に、人に「罪」を認めさせようとされる。第3に、「弱さ」を自覚させようとされる。そうすることで「肉の安心」を壊し、人の「意志」が「苦しみ」と向き合えるようにし、神に助けを乞う選択ができるように助けてくださる。神を求める選択ができれば、「魂」は神と「一つ思い」で結ばれていく。だから、困難に出遭えるようにする神の対応にこそ、神の「本当の慰め」がある。
このように、「肉の安心」を打ち壊すために神がされる手段は3つある。それはつまり、神からの「本当の慰め」は3つあるということを意味する。その3つを、今度は丁寧に見ていきたい。そうすれば、神の慰めは、人が困難な出来事に遭えるよう助けるという話にも納得がいくことだろう。では、「患難」を静観されるという話から始めよう。
(3)患難を静観される
最初に、「患難」という言葉を定義しておきたい。ここでは、「肉の安心を壊す出来事」を「患難」とする。例えば、お金に「肉の安心」を置いている人が、お金を盗まれるという出来事に遭うとどうなるだろう。お金による「肉の安心」は崩壊する。ゆえに、盗まれるという出来事が、この場合の「患難」になる。
つまり、その人が何に「肉の安心」を置いているかで、その人における「患難」も変わってくる。例えば、人から良く思われることに「肉の安心」を置く人は、何らかの失敗で評判を落としてしまうことが患難になる。健康に「肉の安心」を置く人は、病気になることが患難になる。だから神は、その人の「肉の安心」を壊す「患難」を静観される。では、「患難」を静観するという話を始めよう。
私たちはさまざまな「肉の安心」を手にして暮らしている。「お金」「仕事」「評判」「健康」「ゲーム」「娯楽」「快楽」などの「肉の安心」に支えられて暮らしている。だがそのせいで、「本当の苦しみ」である「死の恐怖」にはまったく気付かない。「魂」が「苦しみ」を訴えても、その訴えを聞くことができない。「苦しみ」や「空しさ」に蓋がされている。そこで神は、それぞれが手にした「肉の安心」を打ち壊す出来事を静観される。その出来事を、「患難」と呼ぶ。
その時、どんな「肉の安心」であっても破壊してしまう強力な「患難」がある。それは予期せぬ自然災害や重病である。中でも命を脅かすほどの自然災害ともなれば、すべての「肉の安心」を一瞬にして奪い取ってしまう。新たに「肉の安心」を手にしようとしても、まったく追いつかない。そこで神は、自然災害ですら静観される。そのことで、人の「意志」が神にあわれみを乞う選択ができるように援護される。信じがたいかもしれないが、イエスは実際にそうされた。イエスは、弟子たちに襲いかかった自然災害を静観されたのである。その話はこうであった。
弟子たちは、夕方になった頃、湖の真ん中で舟に乗っていた。イエスは陸地におられた。ところが突然、強い向かい風が吹いてきて、弟子たちは舟を漕げなくなった。このままだと命の危険さえあった。それはまさに命を脅かすほどの予期せぬ自然災害であり、弟子たちにとっては「肉の安心」を奪い去る患難となった。ところが、陸地でその様子をご覧になったイエスは、次のような行動に出られた。
イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(マルコ6:48)
何とイエスは、湖の上を歩いて彼らに近づき、弟子たちの患難をただ静観するというのである。「そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」。しかし、神が患難を静観されたことで、少なくともペテロは心を神に向け、神に助けを乞うことができた。その様子を聖書は、こうつづっている。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。(マタイ14:30)
このように、「肉の安心」を奪ってしまう「患難」を神は静観される。患難が「肉の安心」を奪ってしまえば、人の「意志」は「魂」の叫び声に耳を傾けることができ、心を神に向ける選択が可能になる。その選択ができれば、「魂」は神を慕い求めることができ、「本当の苦しみ」は解決へと向かう。こうして、患難が神の「本当の慰め」を得るときとなる。ダビデはそのことを知り、「死の陰の谷を歩く」ほどの患難に遭っても、それが神のむちとなり、杖となり、「私の慰め」になることを証ししている。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(詩篇23:4)
聖書は他にも、患難については次のように教えている。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:3、4)
まことに神の「本当の慰め」が、患難と共にやって来る。とはいえ、患難となる出来事は神から来るわけではない。神が患難を持ち込むわけではない。前編で説明したが、「患難」となる困難はすべて、神との結びつきを失った「死」に起因する。悪魔の仕業である「死」から生まれた。神はそれを逆手に取り、益とされるだけである。そのことは、ヨブ記を見ればよく分かる。神は悪魔の仕業による患難を静観し、ヨブが「本当の慰め」を得られるようにされたからだ(参照:神の福音(56))。
以上が、1つ目の「本当の慰め」の話になる。では、2つ目の「本当の慰め」を見てみよう。それは、罪をあぶり出し、「罪責感」を抱かせるということであった。「罪責感」を抱くという困難に出遭わせることであった。
(4)「罪責感」を抱かせる
「魂」が神を慕い求められるようにすることが、神の「本当の慰め」となる。そのためには、「肉の安心」を何とかするしかない。そこで神は、これでもかと罪をあぶり出し、「罪責感」を抱かせてくる。そのことで、「肉の安心」を役に立たなくさせる。そうなれば、人の「意志」は罪の赦(ゆる)しを神に求められるようになり、罪が無条件で赦される神の愛と出会える。出会えば、「魂」は神との結びつきを強くし、「本当の苦しみ」は解決へと向かう。ゆえに、「罪責感」という困難に出遭わせることが、次なる神の慰めとなる。
考えてみてほしい。気付かなかった病気を知ったなら人はどうするかを。しかも、それが自分の力ではどうにもならない病気だと知ればどうするかを。言うまでもなく、人は必死になって医者を頼る。同様に、人はどうにもならない罪に気付けば、必死になって神を頼るのである。その「罪責感」から、神にあわれみを乞うようになる。だから神は、人が気付かない罪を神の律法で気付かせ、どうにもならない罪を認めさせようとされる。それはすべて、罪人を招くためにそうされる。それでイエスは、次のように言われた。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)
ここでイエスは、罪を病気に重ねて説明された。なぜなら、罪は人に入り込んだ「死」に起因するのであって、「死のとげは罪であり」(Ⅰコリント15:56)、人の本質に原因があるわけではないからだ。
いずれにせよ、神は罪(病気)に気付かせようと、人の心に書き込んだ律法を使う。さらには、聖書に書き記された律法を使って、これでもかと罪をあぶり出す。それにより、人はどうにもならない罪に気付くことができる。そして、気付いた罪を認めることができれば、人の「意志」は医者に助けを乞うように、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と叫ぶ選択ができる。それにより「魂」は、神に無条件で愛されるという義を手に、「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:14)、神との「一つ思い」が築かれていく。そのことを教えるために、聖書はペテロを取り上げている。では、イエスとペテロの間に起きた出来事を見てみよう。
イエスが捕らえられると、ペテロは人々から「お前も仲間だ」と言われた。その時、ペテロは3度もイエスを知らないと言ってしまった。そのことで、神を愛せよという神の律法が彼を責め立て、ペテロはようやく、どうにもならない自分の罪を認めることができ、彼の「意志」は心の中で叫んだ。それはまさに、イエスが譬えで言われた、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)の実際であった。
イエスはその叫びを聞き、彼の方を振り向いて彼を見つめられた。その目は、「それでも、わたしはお前を愛しているよ」という目であり、ペテロは罪が赦される義を得たのである。これが、イエスが譬えで言われた、「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:14)の実際であった。
こうしてペテロは、イエスが言われた「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」という言葉を思い出し、その罪が赦されたと知って激しく泣いた。彼の「魂」は神の愛を受け、神との結びつきを強くしたのである。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:61、62)
このように、神の「本当の慰め」の2つ目は、律法を使って人の罪を責め立てることにある。罪に気付かせ、罪を認めさせることにある。そうやって「肉の安心」を打ち壊し、「魂」をキリストへと導いてくださる。そういう意味では、神の律法は私たちをキリストに導く養育係となる。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)。では、3つ目の「本当の慰め」を見てみよう。それは、「弱さ」を自覚させる困難に出遭わせることであった。
(5)「弱さ」を自覚させる
人は、神との結びつきの中で生きる者として造られた。キリストの部分として造られた。「私たちはキリストのからだの部分だからです」(エペソ5:30)。そうした造りゆえに、人は単独では生きられない。神なしでは生きられない。これが人の「弱さ」であり、「弱さ」とは、人と比べて劣っている能力のことを指すのではない。
だが人は、人と比べれば劣った部分を必ず持っているので、それを自分の「弱さ」だと思ってしまう。しかしそれは、神なしでは生きられないという「本当の弱さ」を知るための“影”にすぎない。人が人と比べて覚える「弱さ」は「本当の弱さ」の“影”であり、神と人とを結びつける接着剤なのである。であるから、そうした「弱さ」こそが人の「誇り」となる。
ところが、アダムの罪により「死」が入り込み、人は神との結びつきを失ってしまった。そのせいで、神を必要とする人の「弱さ」は、神の代用を必要とするようになり、それと結びつくしかなかった。「お金」「評判」「健康」、そうしたものと結びつき、「肉の安心」を得るしかなかった。こうして、神を必要とする人の「弱さ」は「肉の安心」に封印されてしまった。
これでは、神なしでは生きられないという「弱さ」があることに人は気付かない。逆に、自分が手にした「肉の安心」を見て、自分は神なしでも生きられる「強い者」だと思ってしまう。そこで神は、神なしでは生きられない人の「弱さ」を自覚させようとする。「弱さ」は神と人とを結びつける唯一の接着剤となるので、神は何としても「弱さ」を人に自覚させたいと考える。自覚できれば、人の「意志」は心を神に向ける選択が容易になる。少なくとも、私たちが救われたのは、神の助けで「弱さ」が自覚でき、心を神に向ける選択ができたからである。だから、救われたときは喜びがあった。
ところが、その喜びも時と共に薄れていった。それは、再び人の「弱さ」が「肉の安心」によって封印され、「魂」が神を慕い求められない状況になったからにほかならない。そこで、まことに「弱さ」を自覚できるようにすることが、神の究極の慰めとなる。「弱さ」を自覚させ、それを誇りに思えるようにすることに「本当の慰め」は向かう。
実は、患難を静観するのも、罪を認めさせるのも、すべては「弱さ」を自覚させるための準備にすぎない。最終ゴールは、人が真に「弱さ」を自覚し、それを誇れるようにすることにこそある。そうすれば「肉の安心」は粉々に崩れ、「魂」はまことに「一つ思い」で神と結びつくことができるからだ。それで神は、そのためなら人の祈りを無視するということさえもされる。そのことを教えるために、聖書はパウロを取り上げている。では、神とパウロの間に起きた出来事を見てみよう。
パウロは、実に多くの患難に襲われた。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。・・・たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11:23~27)。これは、パウロの患難を神はここまで静観されたということの証しでもある。だが、パウロはそのことで誰よりも強い神との結びつきを得ることができ、「魂」は平安を得ることができた。
それだけではない。その間、パウロは神の律法にも責め立てられ、どうにもならない罪を自覚させられた。神の律法と罪の律法の両方に仕えるしかない、みじめな自分を自覚させられたのである。しかしそのことで、「魂」は神を求めることができ、神に感謝した。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(ローマ7:25)
これだけでも十分な神の慰めを得ていたが、神の慰めはさらに続いた。その慰めは何と、パウロの「祈りを聞かない」というものであった。パウロは持病に苦しみ、それを癒やしてほしいと3度も神に祈るも、神は無視されたのである。神はその理由を、パウロにこう言われた。
わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。(Ⅱコリント12:9)
パウロは、祈りが聞かれなかった理由を神から教えられた。それは、神なしでは生きられない自分の「弱さ」を自覚するためであったと。そして、その「弱さ」にこそ神の恵みが働くことを教えられた。だからパウロは、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と告白し、自分の「弱さ」を誇ったのである。さらに「弱さ」を自覚させてくれる患難を、甘んじて受けていることを宣言した。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)
このように、神は時として祈りさえ無視される。そのことで真に「弱さ」を自覚させ、それを媒体に神との強い結びつきを得させようとされる。そうなれば、「本当の苦しみ」からも解放され、人は「弱さ」を誇りに思えるようになる。
(6)神の慰め
見てきたように、「本当の苦しみ」が分かれば、神がされる「本当の慰め」も見えてくる。それは患難の静観であり、罪を認めさせることであり、「弱さ」を自覚させることにほかならない。これを一言で言うなら、神は人が困難に出遭えるよう助けるということになる。それは一見すると、まるで「ムチ」を加えられているようであり、とても神の慰めには見えないだろう。だが、そこにこそ神からの「本当の慰め」が潜んでいる。それで聖書は、次のように教えている。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5、6)
聖書は、それが「懲らしめ」に見えたり、「むちを加えられる」ことのように思えたりしても、そこにこそ神の本当の愛があることを教えている。それが「肉の安心」を壊し、「魂」に「平安な義の実」を結ばせてくれることを教えている。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)
このように、人の目には「懲らしめ」にしか見えないような出来事にこそ、神の「本当の慰め」が潜んでいる。「懲らしめ」にしか見えない困難が「肉の安心」を壊し、「魂」と神との間に「一つ思い」の関係を築かせてくれる。「平安な義の実」を結ばせてくれる。「肉の安心」から、「神の安息」へと導いてくれる。ここに神の福音がある。
前回のコラムで、人は「逆さまに見える眼鏡」を掛けているという話をしたが、まことに人は神の慰めを逆さまに見てしまっている(参照:福音の回復(60))。神の「本当の慰め」となる困難を、人は罪に対する「罰」として見てしまっている。それで、人は困難に遭う度につぶやく。しかし、「本当の苦しみ」が分かり、神がされる「本当の慰め」も分かるようになれば、人の口からは神への「つぶやき」が消え、感謝が溢れるようになる。困難という苦しみに遭ったことを、心から感謝できるようになる。
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)
「あなたのおきてを学びました」とは、神と「一つ思い」になることを学べたということであり、「魂」が「本当の苦しみ」から解放されたことを言い表している。では、最後の話をしたい。それは、「潜在意識」の中で繰り広げられている、「肉の思い」と「御霊の思い」との戦いである。
「肉の思い」と「御霊の思い」
コラムの前編で、人には「顕在意識」と「潜在意識」があることを述べた。そして、「潜在意識」の中には、「体」に蓄積された記憶を母体とする「肉の思い」と、「魂」に蓄積された記憶を母体とする「御霊の思い」とがあって、両者は争う話をした。この話を掘り下げてみたい。そうすれば、述べてきた話がよく見えるようになる。
私たちの心には、「肉の思い」と「御霊の思い」とが住んでいる。この両者は、互いに異なる訴えをする。そうなると、どちらの訴えを取るかを判断する機能が必要になる。その機能を、「意志」と呼ばれる部分が受け持っている。「意志」とは機能であって、「体」や「魂」のような実体があるわけではないが、訴えに対し、何を選択するかを決定する機能である。
ただし、「体」が「死」に支配される以前は(アダムがエデンの園で神と暮らしていた時代は)、「体」の訴えも、「魂」の訴えも目指すゴールは神で一致していたので、「体」と「魂」は、訴えで争うことなどなかった。「意志」は、平和のうちに優先順位を決めるだけでよかった。しかし、「体」が「死」に支配されてからは、そうはいかなくなった。「体」と「魂」は異なるゴールを突きつけるようになり、自らの「意志」の決定をめぐって争うようになった。
その「意志」が下す決定は、「顕在意識」の中で行われることもあれば、「潜在意識」の中で行われることもある。「潜在意識」の中で行われた場合、人は自らの「意志」が何を選択したかは分からない。分からないが、自らの行動から、自らの「意志」が何を選択したかは推測できる。例えば、人が教会に行くようになった場合、その人の「意志」は「御霊の思い」を選択したのである(参照:福音の回復(44))。
いずれにせよ、「意志」の選択した内容が人の決定事項となり、人の人格を形成していく。人はロボットではなく、自らの「意志」の選択でもって生きる者として造られたから、そのようになる。そうであるから、神は人の「意志」の同意なしには事を運ばれない。従って、神は「御霊の思い」を映し出す「魂」を通して願いを起こさせ、それを人の「意志」が選択することで御心を実現される。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(ピリピ2:13、口語訳)
ところが、「潜在意識」の中には「死の恐怖」が横たわっていて、これが「肉の思い」を支えているので、人の「意志」は「肉の思い」の訴えを選択してしまう。「肉の安心」を求める選択をしてしまう。「お金」をたくさん手に入れようとしたり、人から良く思われようとしたり、快楽を求めたりと、「肉の安心」を求めてしまう。そして、人の「意志」は手にした「肉の安心」に惑わされ、「魂」の訴えに耳を貸さなくなる。それでイエスは、「肉の安心」についてはこう言われた。
しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。(ルカ6:24~26、新改訳2017)
イエスは、こうした人の現状を譬えでも話された(ルカ12:16~21)。その譬えはこうである。ある金持ちの畑が豊作であった。豊作だったので、その金持ちは自分の「魂」にこう言った。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(ルカ12:19)。金持ちの「意志」は豊作という「肉の安心」に惑わされ、心を神に向ける選択ができなくなってしまったのである。そうなると、「魂」は依然として苦悩するしかない。これが人の現状なのである。
この現状は、たとえクリスチャンになったからといっても変わらない。なぜなら、「神の国」に連れ戻されるまでは「死」に支配された「体」を持っているために、どうしても「体」を通して「肉の思い」が猛威を振るってくるからだ。「御霊の思い」を映し出す「魂」が、「心を神に向けよ!」と叫んでも、「肉の思い」はそれ以上に大きな声で「心を肉の安心に向けよ!」と叫んでくる。ここに、「御霊の思い」と「肉の思い」との争いが起こる。
そこで神は、「御霊の思い」を援護される。「肉の思い」が手に入れさせた「肉の安心」を取り除き、人の「意志」が「御霊の思い」の鏡となる「魂」の訴えを聞けるように助けてくださる。そのために、第1に「患難」を静観される。第2に、人に「罪」を認めさせる。第3に「弱さ」を自覚させる。そうした困難に出遭わせることが、神の援護となる。それにより人の「意志」が神に助けを乞う選択ができれば、人は無条件で愛される自分に出会う。そのことで「魂」は神に近づくことができ、「本当の苦しみ」も解決へと向かう。
このように、人の心の中では「御霊の思い」と「肉の思い」との争いが起きている。「この世」はさまざまな「肉の安心」を提示することで「肉の思い」を援護し、神は困難に出遭わせてくれることで「肉の安心」を取り除き、「御霊の思い」を援護してくださる。神の援護はつまり、悪魔の仕業である「死」から生じるようになった困難な出来事であっても、すべてのことを働かせて益としてくださるということにほかならない。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
この逆転こそが、神が人にされる「本当の慰め」なのである。その慰めは、困難な出来事の中にこそ隠されている。このことが分かれば、今まで自分が神の慰めを逆さまに見ていたことに気付くようになる。そうなれば、パウロのように、こう告白するようになる。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)
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