幕末の1858(安政5)年、日米修好通商条約が締結されると、宣教師の来日が認められ、米国を中心に海外から宣教師が次々と来航した。その中でも横浜は、日本で最も大きな外国人居留地があり、多くの宣教師が訪れ、開国後の日本でキリスト教がいち早く受容された地だ。その横浜で活躍した女性宣教師48人の軌跡をまとめた『横浜の女性宣教師たち』(横浜プロテスタント史研究会編)が今月、有隣堂から出版された。
当時は女性が牧師となることも認められておらず、教会の開拓や神学教育、聖書の翻訳など、直接的な宣教の働きは主に男性宣教師が担っていた。女性宣教師はもっぱら、教育や社会福祉など、社会文化的活動に従事したが、数の上では女性宣教師の方が多かったという。本書では、横浜で活躍した48人の女性宣教師たちを、教派や関係したミッションスクール別ではなく、活動別に紹介。同研究会とYWCAの会員ら、横浜の宣教史に詳しい専門家計17人が執筆している。
本書が最初に紹介する宣教師は、ヘボン式ローマ字の考案者などとして知られる医療宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンの妻、クララ・リート・ヘボン。2人は共に海外宣教を志していたことから結婚。結婚後半年もたたないうちに、夫婦で宣教師として米国を発ち、シンガポールと中国(当時は清)の厦門(アモイ)に滞在して宣教を行った。しかし、クララがマラリアに感染したため帰国。その後、ニューヨークで13年余り病院経営するが、再び海外宣教を志して資産をすべて売り払い、開港間もない1859年10月に横浜に到着する。
自宅でヘボンは医学を教え、クララは英語を教えた。これは「ヘボン塾」と呼ばれ、当時クララの英語の授業を受けた生徒には、第20代内閣総理大臣の高橋是清(これきよ)や、三井物産初代社長の益田孝、丸善創業者の早矢仕有的(はやし・ゆうてき)ら多くの俊秀がいた。
ミッションスクール関係では、横浜市内にあるフェリス女学院や横浜共立学園、横浜英和学院、捜真学院はいずれも、女性宣教師たちが創設に携わった。横浜共立学園の前身「アメリカン・ミッション・ホーム」の創立に携わった女性宣教師3人の1人であるジュリア・N・クロスビーは、讃美歌「主われを愛す」を最初に日本語に訳した人物でもある。日本語教師の助けも得て訳したものだが、軽快なメロディーと分かりやすい歌詞のため、子どもだけでなく、大人にも愛唱され、祈祷会の参加者を運んできた人力車の車夫まで口ずさみながら町中を走ったという。
一方、日本滞在中に殉職した宣教師もいる。フェリス和英女学校(現フェリス女学院)の校長だったジェニー・M・カイパーは、関東大震災で被災し、悲惨な死を遂げた。
1923(大正12)年9月1日、まだ夏季休暇中であったが、カイパーは秋学期の準備のため前日軽井沢から帰校し、朝から校長室で執務していた。11時近くに、地方で女学校教師をしている一卒業生が訪ねてきた。2人の会話はゲッセマネのキリストの絵から、苦しみの時の主の話題になった。カイパーは短い祈りをして、昼近くに卒業生を校門まで見送り、校長室に戻った時に大地震が襲来した。机を離れドアから逃げようとしたとき、建物が崩れ落ち梁(はり)の下敷きになった。倒れなかった新館から事務員が飛んできたが、校長は声だけで姿は見えない。聞けば体に負傷はないが手を挟まれて身動きがとれないと言う。来合わせた人の助けも借りて約1時間、懸命に救出しようとしたが、大きな木材はびくともせず、そのうち元町の火が山手に移り、強い風でたちまち校舎に燃え移った。このことを告げると、倒壊した建物の下から「私は神の御心のまま安らかにここに眠るから、学校の方々と国の友人たちによろしく。火が近づいたので早く安全なところに逃げてください」と。苦い杯を敢然と受け「御心を成し給(たま)え」の祈りを残して、カイパーは校舎とともに炎に包まれていった。(209〜210ページ)
また、オリーブ・アイアランド・ハジスとM・エヴェリン・ウルフは戦時中、外国人収容所で抑留生活を送っている。1941年初頭、すべての宣教師に引き揚げが命じられたが、横浜英和女学校(現横浜英和学院)の校長であったハジスは「今こそこの国に必要な仕事である」とし、国内に留まっていた。同年12月8日、ついに日本が米英に宣戦布告。警察が学校に来て、教壇に立つことを禁止され、外出制限など「敵国市民」としての生活が始まった。42年6月に、最初の日米交換船が出航し、第2便に乗れるだろうと通知を受けていたが、同年9月、警察が来てウルフと共に収容所に連行された。支度はたった1時間しか許されなかったという。
この他、本書では開国後のカトリック教会による「日本再宣教」と女子修道会についても、1章を割いて紹介。また「女性海外伝道協会の成立」と題した第1章では、家庭、あるいは教会のごく一部でしかリーダーシップを取る場がなかった当時の女性たちが、教会を拠点とした活動をきっかけに、次第に社会へと活動の場を広げていく様子が描かれている。それによると、皮肉にも女性たちの活動をより広範囲にさせる契機となったのは、南北戦争だった。教会は銃後の守りとしての女性の役割の重要性を説き、戦場へ送る医療物資の資金集めでも女性たちが活躍した。このような経験を通し、女性たちは組織の形成手腕を身に付け、その後の海外伝道の働きに生かされていった。「19世紀後半のアメリカに起こった女性海外伝道運動は、女性の領域を打破するのではなく、拡大することによって、花開いた運動」だという。
本書で詳しく紹介する48人を含む計256人の来日女性宣教師のリストや、横浜居留地の地図なども収録。開国、キリシタン禁制の高札撤廃、明治維新、関東大震災、そして太平洋戦争と、まさに激動の日本で生涯をささげた横浜の女性宣教師たちの歩みをまとめた本書。「あとがき」の最後の言葉に、本書の編集委員たちの思いが込められている。
「本書により、これまで歴史書に登場することの少なかった女性宣教師の存在が周知され、その働きが評価されること願ってやまない」
■ 横浜プロテスタント史研究会編『横浜の女性宣教師たち』(有隣堂、2018年3月)