日系カナダ人の伝道に生涯をささげた女性、マーガレット・A・E・リッジウェイ(Margaret A. E. Ridgway、1915〜2004)の歩みを、全9回にわたって掲載します。
第2次世界大戦時、米国の日系人がどのような困難な状況に置かれたかは、さまざまな形で伝えられてきましたが、強制収容などの出来事を含め、ほぼ同じことがカナダでも起こりました。そのような困難な状況に置かれた日系カナダ人に寄り添い、福音を伝える働きが、この1人の婦人を中心になされていきました。
彼女の働きにより、カナダではカナダ日系人宣教会(CJM)が設立され、さらに戦後は日本にも宣教師が派遣され、新潟を中心とする地域や沖縄で確かな実を結び続けています。
※ 本シリーズは、CJM発行の小冊子「Pressing On」(英語)を翻訳したものです。
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マーガレット・A・E・リッジウェイは、1915年5月31日にカナダはサスカチュワン州レジャイナで生まれました。彼女の父親は、マーガレットがまだ3歳の時に他界しました。1918年に流行したインフルエンザの被害を受けたのです。この悲劇の後、母親は幼い子どもたち(弟のウォルターが1918年に生まれていました)を連れて、ノバスコシア州にある実家に戻りました。母親は、子どもたちの世話を実母(子どもたちの祖母)に任せ、自らは仕事に出掛けました。
1923年、一家そろってバンクーバーに移転。マーガレットと弟は、その地で成長します。彼女はこのつらかった時期を片時も忘れたことがありませんでした。父親を突然失い、愛情を受けられなくなった悲しみは、何によっても埋められませんでした。マーガレットは、その後もずっと父親を失った寂しさにさいなまれ続け、それによって生じた不安感と生涯にわたって闘うことになりました。自分には神の愛や恵みを受ける価値がない、という思いにしばしば襲われたのでした。しかし、彼女は独立心が強く、10代の頃に劇的な救いを体験してからは、熱心に主に従い、御心を追い求めるようになりました。
マーガレットは、ハリー夫妻の友情と訓練のもとで、霊的に成長していきました。そして間もなく、日本人の漁村で日曜学校を行うという先駆的な働きに心を引かれるようになりました。それは、フレイーザー川沿岸にあるセルティックキャネリーとサンベリーという村でした。これは、マーガレットが生まれて初めて未伝地の人々に福音を伝える体験となりました。マーガレットはこの働きに胸を躍らせていました。ハリー兄が亡くなられると、マーガレットはますますビジョンと働きに心を向けるようになりました。間もなくバンクーバー東部地区で、別の日曜学校が開設されました。そこは、多くの日本人家庭がある地区でした。
ウチダ・イクエ姉:私は2人の女性が、私たち、日曜学校の子どもたちを訪ねてきてくださったのを覚えています。そのうちの1人がマーガレットさんでした。私は当時、6歳くらいで、こう尋ねたことを覚えています。「日曜学校ではどんなことをするのですか?」 母は、私たちを日曜学校に行かせてくれました。その日以来、ウチダ家の数人の子どもと他の日本人の子どもたちは、バンクーバーにあるフランクリン・ストリート・ミッションの日曜学校に行くようになり、救い主イエスを知ったのです。不思議なことに、私はマーガレットさんがカナダ訛(なま)りのある言葉で、日本人の子ども合唱隊を指導してくださったのを覚えています。
タサカ・ローズ姉:私がマーガレットさんに初めてお会いしたのは、1930年後半のバンクーバーでした。マーガレットさんは、とても理解と思いやりのある方で、私たちは仲良しになりました。
マーガレットは、いろいろな人とすぐに仲良くなる性格で、日系カナダ人の文化的な違いにも理解を示しました。事実、マーガレットの心の中には、日系人のための働きに生涯をささげたいという強い願いが芽生えていました。事の始まりは、数年前、若い日本人牧師が彼女の教会で奉仕したとき、「皆さんの中で、ブリティッシュコロンビア州にいる日本人を本当に愛している方はどれくらいおられるでしょうか?」とチャレンジしたことにありました。
この問い掛けが彼女の心の中で燃え上がり、忘れることができなかったのです。それから数年後、マーガレットは主に導きを求めました。日本に行って仕えるべきか、それともブラジルに行くべきか(ブラジルには多くの日本人が移住していました)。あるいは、母国カナダで仕えるべきか。
オオイシ・リン姉:親愛なるリッジウェイ姉へ。私が救い主を知ることができるよう助けてくださり、感謝しています。友人であり教師でもあるあなたに出会えたことが、私にとってどれほど大きな意味があったか、あなたはご存じないと思います。あの幸いな晩以来、私は主の愛による喜びと輝きを心の中に持ち続けています。(1939年1月21日)
※1935年1月20日に開校した日本人日曜学校の初日の生徒は2人だけでしたが、リン姉と妹のテルコさんこそ、その2人の生徒でした。
先の祈りの答えが与えられる前に第2次世界大戦が勃発し、海外宣教の働きは停滞しました。しかしマーガレットは、1941年に銀行の仕事を手放し、将来に備えてバンクーバー聖書学校に入学しました。その2、3カ月後、日本軍が真珠湾を攻撃し、戦争は太平洋海域に拡大しました。突如としてブリティッシュコロンビア州の行政者や民衆の間にパニックが起こり、平和で勤勉な日本人たちは「敵性外国人」になりました。
イケノウエ(ウチダ)・サチ姉:私たち一家がバンクーバーからオーシャンフォールズに移転したとき、マーガレットさんは、私たちが通える日曜学校が現地にあるかどうかを心配してくださいました。開戦とともに、私たち一家はバンクーバーに戻ることを余儀なくされました。父がホープ・プリンストン・ハイウエーの道路建設の仕事に異動させられ、むごい事故に遭ったため、一家の家計は厳しさを極めました。母が父の元に行かなくてはならなくなったため、マーガレットさんが私たちを慰めに来てくださいました。
日本に家族の起源を持つ者は、カナダで生まれ育った家族も含めて、全員が疑われました。彼らは前触れもなく連行され、不動産や市民権はすべて没収され、ヘイスティングス公園の間に合わせの仮収容所に集められました。その後、クーテネイ地区に別の粗末な住居が用意され、通称「ゴーストタウン」と呼ばれる旧鉱業集落に列車で移動させられました。
マーガレットにとっては、これが神の時となりました。彼女の日曜学校の働きは住民の集団移住によって完全に中断され、日本人の友人たちの生活は無茶苦茶になりました。マーガレットはひざまずき、主の導きを求めました。彼女は次のように言っています。
「私は1942年のあの春の日を決して忘れることはないでしょう。その時、昔の預言者の言葉が、聖書から私の心に飛び込んできました。『山に登り、木を切り出して、神殿を建てよ。・・・わたしはそれを喜び、栄光を受ける・・・わたしはお前たちと共にいる・・・恐れてはならない』(ハガイ1:8~2:5)」
「バンクーバーの自宅のキッチンで、聖書を開きひざまずいて祈っていた私は、歓喜と荘厳さが入り交じる感覚の中で立ち上がりました。神が語られたのです。もう疑いは消え去りました。主は『板ではった家』(ハガイ1:4)から去るよう、私を召されたのです。それは私の自宅のことであり、私の教会のことであり、家庭環境のことでした。それらから離れ、日本人の友人たちの後を追うよう召されたのです。
彼らは自宅や生活を奪われ、クーテネイ地区やスローカン地区の渓谷にある間に合わせの居住地に移住させられていました。私はそこで、神殿の建設に加わるのです。人手によって造られる建物ではなく、生ける石でできた神殿です。主が栄光をお受けになるでしょう。主は『この新しい神殿の栄光は、昔の神殿にまさる』(ハガイ2:9)と語られました。この働きは、私たちが捨てることになるバンクーバーの働きに優るものとなるのです」