「バスがカスロという小さな町に近づくと、脳裏に疑問が湧いてきました。私を迎えてくれる人がいるのかしら。どこに寝泊まりしたらいいのかしら。先のことは心配せずに、一歩踏み出すよう主から言われたのはこれが初めてではありませんでした。心の奥底では、主が導いておられ、微に入り細に入り取り仕切っておられることが分かっていました」
果たして、アライ・テイコ姉(現クボニワ・ケン夫人)が、バス停でマーガレットを出迎えてくださいました。その晩、マーガレットはホテルに宿泊し、翌朝、湖畔にある小さな小屋に行きました。その後4カ月間、そこが彼女の住まいとなりました。
初日早々、マーガレットは、バンクーバーで知り合った日本人クリスチャンたちを訪問し始めました。幾つかのグループが交わりや祈りのためにマーガレットの小屋を訪れるようになり、子ども向けに「ハッピーアワー聖書クラブ」がスタートしました。また10代の少女向けに「手芸クラブ」が間もなく始まりました。マーガレットは、主について語る機会が与えられるように毎日祈りました。そして、その祈りは答えられたのでした。
「それは、困難に満ちたつらい夏でした」
これは、マーガレットが行く所々で繰り返した定番のパターンの縮小版でした。しかしマーガレットは、先駆者のビジョンとエネルギーも持ち続けました。カスロにいる有能な人たちに働きを任せられることが分かると、彼女は友人たちの勧めに応じて、10月にニューデンバーを訪れました。そこにはもっと大きな被収容者のグループがあり、寒さが増していたにもかかわらず、多くの人がテント暮らしをしていました。
3部屋だけの小さな小屋が、急ピッチで次々に建てられました。政府によって提供された「住居」とはこのことです。タールを染み込ませた紙で造った小屋1軒には、2家族が住み込みました。1家族に寝室が1つしかなく、その間に小さなキッチンが付いていました。
イケノウエ(ウチダ)・サチ姉:私たちがマーガレットさんにお会いしたのは、ローズベリーとニューデンバーでした。そこには多くの日系人が集団移住させられていました。マーガレットさんは日系人たちの後を追い、福音を伝えるために自分ができることを行い、私たちを励ましてくださいました。「マーガレットさん。私は、あなたの犠牲と献身と日本人への真実な愛の故に、あなたと神様にとても感謝しています。私や家族が皆、救われたのはあなたのおかげです」
その冬はとても寒く、雪も多かったのですが、クリスマスを祝いたいという願いをくじくものは何もありませんでした。山裾から取ってきた小さなツリーと自家製のデコレーション、聖歌隊(新たに結成された「青年会」のこと)など、誰にとっても忘れられないクリスマスとなりました。このクリスマスは、緊張が急速に高まる情勢の中で初めて持たれたクリスマスでした。
この冬から春にかけて、マーガレットは日曜学校や手芸クラブ、青年会に加えて、ローズベリーに土曜学校を設立しました。ローズベリーはここから5キロほどの所にありました。ホリサキ牧師は日本語礼拝を始めました。マーガレットの友人で、西海岸から来た日系2世たちは、これらの活動すべてにおいて有能な協力者でした。1943年の春、マーガレットは働きを彼らに任せ、新しい働きに乗り出しました。
タサカ・ローズ姉:集団移住の狂乱の中で、マーガレットさんと私は別れ別れになっていましたが、間もなく彼女はイーストリルーエットにやって来ました。まるで日系人と共に集団移住するかのように、西海岸で知り合った友人一人一人を探し当てては後を追っているかのようでした。道路の状態が悪くても、マーガレットさんは思いとどまりませんでした。目的地に到着すると、マーガレットさんはいつも笑顔で私たちを励まし、強めてくださいました。私は、主が彼女と出会わせてくださったことを感謝しています。