今日多くの人々は、地球環境の深刻な問題や核戦争の現実的脅威に関して潜在的な恐れを抱いている。つい最近も米国のトランプ政権は、「核戦略見直し」(NPR)を発表し、オバマ前政権が目指した「核なき世界」を事実上放棄したと大きく報じられた。爆発力を抑えた小型核兵器の開発も明記したという。被爆地の「広島」や「長崎」からは「はらわたが煮えくり返る」といった怒りと深い失望の声が上がっている。
冷戦後に残された核兵器で、世界を17回以上にわたって摂氏7200万度に達する高熱で破壊できるほどの蓄積があるといわれている。今回、核を運用拡大へ弾頭小型化し「核なき世界」放棄を明らかにした米政権、核開発を一向に止めようとしない北朝鮮、テロの拡散。世界の終末に向かって走り出している現代世界。それに対して、いつの頃からかキリスト教界は、終末論やキリストの再臨に対して沈黙するようになったように、個人的に感じられる。なぜなのか。私見であるが、幾つかの理由を考えてみた。
- 聖書信仰よりも人間の知性、理性、解釈が重視される傾向が強くなった。
- ノストラダムスのような怪しげな終末論と誤解されたくないので沈黙する。
- 終末論に関してはさまざまな神学的解釈や見解があり、複雑なのであまり触れたくない。
- 現実の政治、社会問題、実生活に目が向き、終末論を軽視する傾向がある。
- キリストの文字通りの再臨を信じられない(もしくは信じない)。
しかし一方では、終末論に関して大きな関心を持っているキリスト者たちも少なくない。私は一昨年、『終わりの時代の真の希望とは~キリストの再臨に備えて生きる!』という冊子を個人出版(昨年再販)したが、あっという間に売り切れてしまった。ハーベストタイムの中川健一氏が全国主要都市で開催している「再臨待望聖会」に毎年何百人という多くの参加者が集っている。その聖会をインターネットで視聴しているキリスト者も多い。その他に終末論や再臨に関するネットサイトも国内外にある。
一般的に終末論に関して沈黙する理由として、過去の歴史においてこのテーマは最も攻撃され、歪められ、汚されてきたからである。
神学者ヘンリー・シーセンは、その4つの理由を挙げている。
- 再臨の期日の限定。誤った憶測による期日の予想や推測で再臨教理全体が面目失墜させられた。
- キリストの再臨を説く者たちがしばしば抱いた幻想的かつ非聖書的教えによって、この教理に悪評をもたらした。
- さまざまな先入観、偏見が多くの人の場合、この教理を受け入れることを妨げている。
- この教理に反対する主な原因は、新生していない心である。敬虔なキリスト者のみが「アァメン、主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20)と言い得る。信仰を持っていない人々は、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」(Ⅱペテロ3:4)と言い続ける。
キリストの再臨は、初代教会の重要な信仰の一部であり、ローマ帝国による恐るべき迫害を受けていたキリスト者たちの不朽の「希望」であった。教会の基本的信仰の基準である「使徒信条」にも、明確に「かしこよりきたりて」と宣言している。穏健な福音主義の神学者で著名なJ・I・パッカー氏は、次のように記している。
「キリストの再臨は決して起きないと考える人もいます。けれども、神のことばは再臨を支持しています。現代のまじめな科学者たちは、私たちの世界の終りが核爆弾や環境的な大変異によってやって来るのはかなり確実なことであると語っています。キリストの再臨は、想像しがたいことです。けれども人の想像力で神の力を計ることはできません。・・・キリストがこられるという希望は、新約聖書のクリスチャンたちに感動を呼び起しました。新約聖書では、キリストの再臨について、3百回以上も証言されています。平均すると、13節に一度の割合になります」(『私たちの信仰告白 使徒信条』89、90ページ)
世界の将来に対して悲観的観測がまん延している現代世界に対して、教会は、明確に歴史のただ中で起こるキリストの再臨の希望を宣べ伝えなければならない。約2千年前、キリストの初臨に関して旧約聖書の多くの預言がなされていたことが、ことごとく成就した。(ユダヤ民族のユダ族から、ダビデの子孫として、処女から、ベツレヘムで誕生、ガリラヤでの宣教、その苦難の死と復活、全世界への福音宣教など)。私たちは、やがて起こるキリストの再臨に対しても、初臨と同じように実現すると深く確信することができるのである。
イエスの初臨の時、ヘロデ王は、祭司長、律法学者たちに「キリストはどこで生まれるのか」と問いただした。それに対して祭司長、律法学者たちは預言書から「ユダヤのベツレヘムです」と答えた。が、誰もイエス降誕を祝いに行かなかった。むしろイエスに反対する最大の抵抗勢力になった。彼らの実際的不信仰に対して、イエス降誕を祝いに駆け付けたのは、異邦人の東方の博士たち、当時蔑まれていた貧しき羊飼いたちであったのは、非常に教訓的である。
(イスラエルの写真提供・石井一弘氏)
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