宿泊したユースに「長崎カトリックセンターにご宿泊の皆様、浦上天主堂でミサ体験してみませんか」というパンフレットがありました。私は、生まれてから今まで、カトリック教会のミサに出席したことがありませんでしたので、「参考」のために、宿泊客7、8人と共に、ユーススタッフの案内で午前6時からの浦上天主堂のミサに参加することにしました。
他の参加者たちも皆カトリック信者ではないようです。スタッフの男性に聞きましたら、浦上天主堂では、毎朝ミサを行っていて平均100人前後の出席があるとのこと。会堂内部に入ると1千人以上は楽に収容できる天井の高い大会堂でした。私たちグループは会堂後部に座りました。
壇上に2、3人の司祭と、大人、子ども数人が並んでいました。司祭の司会によりミサが進められていきます。聖書朗読担当者により、何カ所かの聖書朗読などが25分ほど厳かにありました。その後、「聖体拝領」という儀式が始まりましたが、私は、そっと退席しました。
毎朝6時からのミサ、そして聖体拝領の儀式の執行。いろいろと考えさせられた初のミサ体験でした。ユースに帰って7時ごろ、繁田さんが車で迎えに来られ、朝祷会会場の日本基督教団長崎古町教会へ。この教会は1919(大正8)年、米国にあるオランダ改革派教会から派遣されたL・J・シェーファー宣教師によって開拓伝道がなされ、1992年現在の教会堂が献堂されたとのこと。4階建てのがっしりした建物で、大きなパイプオルガンも設置されている美しい会堂です。
市内から、十数人の牧師、司祭、信徒が集い、7時半から8時まで祈祷会、8時から朝食を取りつつ、交わりの時。参加者の自己紹介、教会情報交換、次回日程などの確認。教派教団を超えてキリストにある祈りの交わりがありました。
朝祷会後、会場近くのカトリック中町教会を見学しました。ここは長崎に現存する被爆建造物の1つで、残った塔や外壁を利用して復元した純白の大きな会堂です。この庭園に1633年から37年にかけて長崎で殉教した16人の殉教者の像が建てられてありました。日本人9人、他にスペイン人4人、フィリピン人、イタリア人、フランス人がそれぞれ1人ずつ。教会の入り口付近には、「日本26聖人3少年像」も建てられていました。それにしても日本の国家権力によるキリシタン弾圧の凄まじさに心震えます。年齢も国籍も関係なく、キリシタンということで処刑したのですから!
その後、繁田さんの車で長崎原爆資料館を見学しました。ここも2回目の再訪ですが、見学するたびに原爆の惨状を示す写真や遺品、被爆資料に心痛みます。特に若い母親が被爆して赤子に乳を飲ませている写真に、何とも言えない思いにさせられました。平日の午前中でしたが、多くの修学旅行生や外国人観光客が真剣に展示物に見入っていました。当時の長崎市の人口約24万人、死者7万3884人、負傷者7万4909人。助かった負傷者も、その後長く原爆症で地獄のような苦しみに遭っています。2度と起こってはならない核戦争!
長崎原爆資料館を出て少し歩いたところに、原爆落下中心地碑があり、すぐそばには旧浦上天主堂の遺壁の一部が移築され、てっぺんにはザビエル像が立っています。この近辺に流れる小川には、落下当日、無数の黒焦げの遺体で溢れていたといいます。痛ましい限りです。原爆落下中心地碑からエスカレーターで高台に出ると、そこは有名な平和公園で、テレビでもよく報じられる平和祈念像が建てられています。
平和公園の広場はこの日も、修学旅行生やアジア系の観光客などで溢れていました。そこで最も目を引いたのは、福岡からの修学旅行の小学生たちの団体が、平和祈念像の前に整列して平和の歌を大きな声で歌い、「私たちは戦争を2度としません」と宣言していた光景です。多くの外国人観光客たちも、この光景に注目して盛んにカメラのシャッターを切っていました。
この子どもたちが2度と核戦争の悲劇を経験しないために、もっと核戦争の恐ろしさを啓蒙しなければならないのではと強く思わされました。
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