先日、かねてから気になっていた、遠藤周作原作「沈黙」の映画をやっと鑑賞することができました。皆さんはどんな感想をお持ちですか。今回から数回に分けて私の感想を述べることをお許しください。
この映画は全体として原作にとても忠実であろうとしたという印象を受けました。すでに天に召されている遠藤周作氏も喜んでおられるのではないかと想像します。よくぞ私の気持ちをここまで理解してくれた、と手をたたいているのではないでしょうか。
原作に忠実であるという印象と共に、原作にはなかったけれどマーティン・スコセッシ監督が想像を膨らませて描いた部分にもいたく感動しました。例えば、主人公のロドリゴ神父が棄教した後に江戸に住まわされ、日本人の妻をあてがわれ、静かに監視の中で生きる生涯を余儀なくされていたときのことです。
晩年にキチジローが彼を訪ねてきます。これは原作にはなかったと思います。キチジローといえば、キリシタンの迫害拷問を怖れて度々ロドリゴ神父を失望させた「どうしようもなく意志の弱い」人物として描かれています。そのキチジローがロドリゴ神父に再びコンヒサン(告解)をして自分の罪を赦(ゆる)してほしいと申し出るのです。
ロドリゴ神父はすぐさま「否」と言って、自分はもはやパードレ(神父)ではないと否定するのですが、キチジローはそれでも矢も盾もたまらず罪の告白をするのです。その時、ロドリゴ神父は罪の赦しを口で宣言することができないため、内面の葛藤を覚えながら自分の額をキチジローの額につけてキチジローを強く両手で抱きしめることしかできません。
ロドリゴ神父の深い苦悩が表れています。しかし、その時、皆さんも気が付きましたか。ロドリゴ神父の背後の少し高い所に、部屋の窓の桟(さん)と上から垂れ下がっている紐(ひも)が十字になっていました。スコセッシ監督はあの十字に全てを物語らせたのではないでしょうか。そして、同じ部屋の別な背景には障子の桟がたくさんの十字架に見えませんでしたか。
キリストが大きな声でキチジローに罪の赦しを宣言しており、ロドリゴ神父をそれでもなおキリストの遣わされた福音の大使として立てて用いておられるという事実を語らせたのではないでしょうか。あそこにスコセッシ監督の信仰を見たように思い、涙が出て来そうになりました。
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