前回のコラムから映画「沈黙」の感想を述べさせていただいています。遠藤周作原作の小説『沈黙』の真意をあれほどまでに深く理解し、それを見事に映画化したマーティン・スコセッシ監督という人は、どのような人なのだろうかと思い、少し彼について調べてみました。
スコセッシ監督のご両親は、イタリヤから米国に移民として移り住み、彼はマフィアが支配する劣悪な環境の中で育ち、人間の腐敗と矛盾に満ちた現実の中で、人はいかにすれば正しく生きていけるか苦悩した人であったことが分かりました。
そのような人だからこそ、「沈黙」に出てくる神父やキリシタンたちの苦悩の描写を描き、この世の矛盾を浮き彫りにしたかったのでしょう。社会の中でつつましく目立たない所で生きている人たちが、どうしてこれほどまでに苦しまねばならないのか、権力を持つ人々が弱い人々に対して示す無理解と不寛容を世界に問いたかったのではないでしょうか。
映画「沈黙」の中には、拷問や迫害が驚くほどリアルに残忍な映像として何度も出てきて、見ている者の心を引き裂きます。それも、この世の矛盾と苦悩を包み隠さず知らしめたいというスコセッシ監督の意図であるということが分かりました。
この映画を通して、スコセッシ監督は正義感と人間愛に満ちた人だと私は感じました。人としての基本的自由と権利と尊厳と信仰の全てを剥奪されて、有無を言わせず幕府の監視の下に残る生涯を過ごさざるを得なかったロドリゴ神父が、亡くなって棺桶に納められたとき、彼の日本人妻が当時の習慣に従って刃物を彼の遺体の胸の中に納めました。その時、彼女が監視人には分からないように小さな木のクロス(十字架)を彼の掌(てのひら)の奥にそっとひそませてあげた印象的な場面がありました。
あのクロスは、かつて長崎・外海地区のトモギ村の「じいさま」が造ってロドリゴ神父に与えたものでした。外見は仏教式に弔われたけれど、彼の魂はキリストと共にあって、今こそ天国にあってキリストご自身がロドリゴ神父を慰めてくださるようにと願う妻の思いの中に、スコセッシ監督の人間愛が表現されていました。深い感動を覚えました。たとえ、相手が国家権力であったとしても、キリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もない(ローマ8章)ことを伝えてくれました。
◇