映画「沈黙」の中でひときわ演技が光っていたのが、俳優尾形イッセーが演じる井上筑後守であったのではないかと思います。幕府のキリシタン根絶のために特命を受けて、宣教師たちを次々と棄教に追い込んでいった立役者であります。あの落ち着き払った自信たっぷりの、ねらった獲物は絶対に逃さないという肝の座り方を、尾形イッセーは演じきったと思います。
その味わい深い演技は別として、井上筑後守が宣教師を棄教させる重要な論点として強調していたことが、日本という土地はキリスト教にとっては「沼地」であって、キリスト教の信仰は決して根付かないという主張であります。他の土地で根付く花でも、別な土地では根付かないものがあるように、日本ではキリスト教は根付かないのだ、キリスト教にとっては日本は「沼地」である、だから宣教を諦めろ、という主張を何度か繰り返し強調しました。
この論点は「沈黙」の原作者の遠藤周作氏自身が読者に投げ掛けた問いであったと思います。キリスト教は日本では根付かないものなのか、他の国々では大きく花開いているキリスト教でありながら、世界の先進国では唯一日本だけがクリスチャン人口が1パーセントにも満たないのは、日本という特別な文化と風土のためなのか。
数限りない宣教師が明治以降にも日本に送られてきて、大々的な宣教の働きがなされてきたけれども、どうしてもキリスト教は社会の周辺にあって、教会が地域の中で重要な存在となりえないのは、日本という国の持つ特性に起因するのだろうか。どうしてキリスト信仰というものが日本の国で力強く成長していかないのだろうか。
遠藤周作氏はこの問題を「沼地」という言葉で表現したのだろうと思います。沼地ではいくら種を植えても、根がしっかりと土をつかむことができません。そのため植物は立派に成長することができません。日本人は、本当の意味のクリスチャンになれないのだろうか。
このような問い掛けを受けて、私たち日本人はどう答えたらよいのでしょうか。簡単な答えはないと思いますが、私自身はたとえ日本という国がキリスト教にとって「沼地」であったとしても、個々の日本人クリスチャンは他の国々のクリスチャンに劣らない聖霊の実を結ぶクリスチャンになり得ると信じています。そして、そこかしこで「沼地」を「肥沃な地」に次第に造り替えているクリスチャンが存在していると思っています。
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