映画「沈黙」を語る上でどうしても避けて通れないのが、キチジロウの存在でしょう。信仰上の迫害が起こるときには、どんな拷問で苦しめられても妥協しない信仰者もいれば、自身に拷問が下ることを恐れて早々と棄教を宣言する人もいます。「沈黙」の原作者である遠藤周作氏は自らを後者だと捉えて、キチジロウの中に自分を描いたといわれています。
キチジロウはどうしようもなく意志が弱く、迫害や拷問に対してとても耐えられるような意志の力を持っていないことを自認している人です。ですから、キリシタンではありましたが、「踏み絵」を踏まされるときは何度も踏んできた人であり、キリストの像に向かって「呪え」と命じられれば呪った人であります。
そして、幕府の役人に脅されたり、わいろを握らせられると、ロドリゴ神父を裏切ったりもした人です。本当にどうしようもないほど弱く情けない人であり、ロドリゴ神父も彼に完全に失望してしまいます。
しかし、そのキチジロウがどういう訳か、ロドリゴ神父から完全に離れることができず、なんどもコンヒサン(告解)を聞いてほしいと言って帰ってくるのです。最後には、ロドリゴ神父が棄教をして江戸の屋敷牢に監視の下でひっそりと暮らしていた所にまで上がり込んできて、コンヒサンを聞いてくれと必死に頼むのです。
自分もまた、「転びキリシタン」となっていたロドリゴ神父は、このどうしようもないとかつては思っていたキチジロウを見て、何か不思議な安堵(あんど)感というか親しみというか、深い絆のようなものを感じるのです。
一体、「沈黙」はこのキチジロウに何を語らせようとしたのでしょうか。キチジロウは、人間とは本来このようにどうしようもなく弱い存在だということ、自分の本当の弱さ、醜さ、罪深さに気が付いていない人はまだ人間の真の姿を知らないということ、けれども、キリストを裏切ったあのペテロのように自分の弱さもすべてご存じの復活のキリストに自らの一切を明け渡し、キリストの贖(あがな)いによって再び立ち上がってキリストについていく人を神は求めておられる、ということを語らせたかったのではないでしょうか。
十字架の贖いという土台なしには、誰も前に向かって力強く生きていくことができないことを知らしめてくれたのではないでしょうか。
◇