映画「沈黙」についてもう少し考えてみたいと思います。ロドリゴ神父が穴の中に逆さ吊りの拷問を受けているキリシタンたちの姿を見たとき、彼には「踏み絵」を踏むことしか道は残されていませんでした。自分が踏めばこの人たちはあの死の苦しみから解放されるのですから、他にどんな道が残されているというのでしょう。
しかし、自分の愛する主イエスの姿が描かれた「踏み絵」に自分の足をかけるなどということを思うだけで、ロドリゴ神父の足に痛みが走りました。その時です。キリストは「沈黙」を破ってロドリゴ神父に語り掛けます。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。
遠藤周作氏の理解したイエス・キリストが、ここに最も鮮明な形で表現されていると思います。キリストは十字架の苦しみを通られた復活の主であるということ、そして、その復活の主イエス・キリストは苦しんでいる者の傍らにあって、常に共にその苦しみを担っていてくれているお方であるということです。
これは、聖書が啓示している聖霊のことであります。聖霊とは、復活のキリストの御霊であって、慰め主、助け主、いつでも信じる人々の傍らに共にいてくださるお方であります。
当時の幕府の役人の目には「棄教」と見なされる行為であった訳ですが、遠藤氏は、ロドリゴ神父の信仰はむしろこの経験によって深まったということを表現したかったのでしょう。
あのような禁教令が出されている状況下で、外向きには「転び」となる以外に術がなかったのは当然ですが、その状況の中で内面的には、ロドリゴ神父はキリストへの愛と信仰が深化していったということ、あの深い苦悩を通ったからこそ知り得たキリストの愛と真実、それは彼の心から誰も、たとえ幕府といえども奪うことのできない信仰の真実であったことを、遠藤氏は伝えたかったのでしょう。
私たちの置かれている状況は全く異なりますが、しかし、別な意味で信仰の試練や闘いがあります。その中で、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)と証しできる者となりたいものです。
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