10月16日午後、内野隆牧師の車で、外海(そとめ)から宿舎の長崎カトリックセンターユースホステルへ。ユースに入ると、日曜日の礼拝、講演会に出席、内野牧師宅で夕食もご一緒した繁田さんご夫妻がおられてびっくりしました。朝祷会の件で、カトリック教会の野下千年司祭と打ち合わせ中とのこと。
その時、繁田さんがこう言われました。「来年の、長崎の朝祷会の大会で、この近くの如己堂、永井隆記念館の館長、永井徳三郎さんに講演を依頼し、了承していただきました。徳三郎さんは、永井博士のお孫さんです。また明朝、朝祷会がありますので、よろしければご参加ください。私が車で迎えに上がります」と。
突然の申し出で驚きましたが、このことも主の不思議な導きと受け止めて了承させていただきました。長崎カトリックセンターは、6階建ての大きな建物で1、2階が会議室や大ホール、3、4階が司祭居住エリア、5、6階が宿泊スペースになっています。ちょうど札幌の北大前にある北海道クリスチャンセンターに似ています。カトリックセンターのすぐ前の高台に浦上天主堂の壮大な会堂が建っていました。
浦上は、受難の歴史の連続です。浦上の村民は、徳川幕府から明治にかけてキリシタンであることを4度発見され、その都度、過酷な弾圧と迫害を受けてきました。そして、試練と受難の村に最大の悲劇をもたらしたのは、1945(昭和20)年8月9日、米軍による原子爆弾が浦上の真上に投下され、浦上天主堂は一瞬にしてがれきとなり、信徒約8千500人が即死しました。そのがれきの山から戦後、信徒たちの血のにじむような献身的ささげ物により、堂々とした国内最大のカトリックの会堂が再建されました。(『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』参照)
現在の信徒数は、約6千500人。毎朝6時からミサが行われているのには感心しました。この毎朝のミサ、プロテスタントの早天祈祷会にも似ています。ユースホステルにチェックインして、近くにある如己堂に出掛けました。8年前に見学し、非常に強い印象を受けた場所でした。深い感動を受けましたので、2009年に出版した拙著『三浦綾子100の遺言』(フォレストブックス)の「あとがき」に永井隆博士のことを書きました。
「原子爆弾の投下、永井博士も大学で被爆、その3日目、最愛の奥さんは、家の台所で黒い塊となって発見されました。博士は、焼けバケツに奥さんの遺骨を拾って入れ、胸に抱いて墓へ向かいました。あたりの人は、みな死に絶えて、夕陽の照らす灰の上に同じような黒い骨が点々と見えたと言います。この時の、永井博士の悲しみは、天にも地にも響き渡るような大きさであったことでしょう。戦後、永井博士は、二畳一間きりの家、『如己堂』(にょこどう・己の如く人を愛す、という意味の名)で療養しつつ、残された二人の子供たちに愛情を注ぎ、病床で文筆活動を続け多くの本を出版、平和の尊さを訴え続けられました。そして1951年(昭和26)5月1日、長崎医大で天に召されました。43歳でした。(長崎市永井隆記念館パンフレット参照)」
この日も小学生らしい子どもたちのグループや観光客が入れ替わり、記念館を訪れていました。永井博士の残された2人の子どもさんは、長男の誠一(まこと)さん、長女の茅乃(かやの)さん。お2人とも既に天に召され、現在の館長が、誠一さんのご子息・徳三郎さんです。
カトリックセンターで繁田さんからお聞きしていましたので、事務所におられた徳三郎さんに個人的にごあいさつできました。優しいまなざしの、静かな紳士という印象を受けました。長崎から帰宅後、拙著『三浦綾子100の遺言』と三浦綾子紹介の冊子をお送りしましたら、早速、永井博士に関する著書2冊を送っていただき恐縮しました。
その1冊は、お父様である永井誠一著『長崎の鐘はほほえむ―残された兄妹の記録』(女子パウロ会)です。作家の加賀乙彦氏は本書を次のように評しています。「美しい父母の思い出・・・死を前にして原爆の悲惨さと神と人への愛を書きつづった父、永井隆氏と、原爆で亡くなった若き母の思い出は著者の胸に清らかに美しく消えない。涙が目を洗い、心を洗う、そんな本である」と。本書を読みながら自然と目頭が熱くなり、何度も涙しました。
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