日本宣教のリバイバルを待望し、教団・教派を超えて共に断食して祈る「断食祈祷聖会2018」(同実行委員会主催、日本福音同盟=JEA協力)が8~10日、東京中央教会(東京都新宿区)で行われた。1999年から始まり、今回でちょうど20回目を迎えた。記念すべき聖会の最終日には、イムマヌエル綜合伝道団前代表の竿代(さおしろ)照夫氏(新浜教会協力牧師)が登壇し、「再臨に備えて―待ち望んで、早める」をテーマに講演した。
聖会の共通テーマは「王の帰還に備えて 荒野に道を」で、3日間を通して、7人の講師によって講演が行われた。新日本聖書刊行会理事長も務める竿代氏は、昨年刊行された「聖書 新改訳2017」を使い、ペテロの手紙Ⅱ3章1~14節から御言葉をひもといた。
神の時計の進み方
「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」(4節)。竿代氏は、この箇所でイエスの再臨がいつ来るか分からないと言われているのに対して、ペテロが「主の御前では、1日は千年のようであり、千年は1日のようです」と応えていることを指摘。神の時計と私たちの時計は進み方が違うことを語った。
「イエス様は、神様の時計を持っていて、それによって私たちの世界を進めています。そのことを私たちは覚えなければいけません」
また神は、イエスが何月何日に再臨するとは一度も話しておらず、またそういうことを人間が臆測すべきではないと話した。しかし、マタイの福音書24章には、さまざまな予兆の後にこの世が終わることが記されている。「地震、飢きん、戦争といったことは、どの時代にも起こっているが、新聞を片手に、聖書を片手に社会情勢を見るとき、主の終わりの時に近づいていると感じます」と語った。
どのように再臨を待ち望むか
では、再臨をどのように待ち望み、備えるべきか。竿代氏は2つの側面から話した。1つ目は、神の日のために、清き心を持って待ち望むこと。「これらのすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたはどれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないでしょう」(11節)、「愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もないものとして平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい」(14節)と、2つの御言葉を引用し説明した。
「主の再臨は結婚式のようなものです。私たちはキリストの花嫁として、花婿であるイエス様に迎えられるのです。イエス様が十字架にかかってくださったのは、私たちをしみも傷もない花嫁として整えるためだったと書いてあります。『きよめ』ということは、最もキリストの再臨にふさわしい私たちの心の姿なのです」
2つ目は、「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければ」(ペテロⅡ3:12)いけないということ。竿代氏はこれを、「停止条件」という法律用語を用いて説明した。停止条件とは、一定の事項が成就するまで法律行為の効力の発生を停止する条件。「御国のこの福音は全世界に宣(の)べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(マタイ24:14)に、再臨の停止条件が示されているという。
「すべての民族に証しする全世界への宣教が成されて終わる。ただ、どのレベルで宣教が全うされるかは書かれていません。また、国なのか、民族なのか、一人一人なのかもあいまいです。しかし、それが救いです。再臨を待ち望む私たちが力を注ぐべきは一生懸命に宣教を行うことであり、定義することではないのです」
1つのゴールを目指す宣教
竿代氏は、現在の世界宣教の状況について、よく行き渡っている所もあれば、まったくなされていない所もあると話し、あるべき宣教の姿勢について、サッカーの延長戦を例えに説明した。「延長戦では、選手は誰もが時計を忘れて、1つのゴールのために集中して一生懸命に戦う。私たちの宣教もそれが務めではないでしょうか」
そして、インド宣教の拠点をつくったバプテスト派の英国人宣教師ウィリアム・ケアリーや、アフリカ横断宣教の足掛かりをつくったドイツ人宣教師J・L・クラップなどを挙げ、世界宣教のために力を尽くして労すべきであることを訴えた。その一方で、日本から海外に送られる宣教師が年々少なくなっていることを指摘した。
与えられた停止条件のために
「主イエスの宣教の命令に従い、日本の教会は世界宣教に力を入れていくべきです」と竿代氏は訴える。「多くの人は、海外よりも日本の宣教に力を注ぐべきだと考えているようですが、私はそうは思いません。福音は、日本においても海外においても必要です。海外に宣教師を送り出すことによって、日本の教会はもっと強められると思います。どうか日本の教会において世界宣教の火が消えることがないよう、宣教師を送り出す教会になってほしい」
さらに、ペテロがキリストの再臨が遅れているように見えるのは、神の深い憐(あわ)れみの故だと言っていることにも言及した。「忍耐深くあられるイエス様は、1人も滅びないように時を延ばしているのだとするならば、その延ばされた時を貴重な機会として、私たちの家族、親族、友達といった身近な人たちを救うことができるように、あらゆる機会に福音を宣べ伝える者でありたい」と力を込めた。
また、「『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)を引用し、「毎日、(主の祈りで)『御国を来たらせたまえ』と祈るとき、皆さんは何をイメージしていますか」と祈りについても問い掛けた。
「『御国』を一般的な意味で言えば、主の御旨が完全に行きわたる領域のことです。この社会に御国が来るようにと祈るのも大切ですが、最終的なゴールは、主の再臨によって、御国が来ることだということを心に留めてください。そうすれば、私たちは『御国を来たらせたまえ』と祈ることを、『主イエスよ、来てください』と置き換え、祈ることができるのではないでしょうか」
最後に再び、「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません」(ペテロⅡ3:12)を引用し、「与えられた停止条件を、世界宣教を通して、身の回りの伝道を通して、真剣な祈りを通して、果たさせていだたこうではありませんか」と呼び掛けた。