3日目(最終日)
合同礼拝
関西圏では、前々回あたりから「合同礼拝」を行っている。これは会場に実行委員を担当している牧師たちの教会員が集まり、合同で礼拝しようというものである。筆者は、今回は参加しなかったが、後から会場に行って出席者に伺ったところ、大いに盛り上がったということである。このような機会も「フェスティバル」の醍醐味(だいごみ)の1つなのかもしれない。
献身聖会
信徒たちが牧師や伝道師になることを決意するための集会を「献身集会」と言うのは、ペンテコステ・カリスマだけであろうか? 筆者はずっとこの環境に身を置いてきたため、これを客観視することはできない。いずれにせよ、本大会のクライマックス、最後の集会は、ユースを主体としながらも全世代へ「献身」を迫るひとときであった。
講師はジョナサン周牧師と万代栄嗣牧師。ジョナサン牧師は、台湾のリバイバルをリードしたナタナエル周牧師の息子、そして栄嗣牧師は、1970年の大阪万博クルセードを導いた万代恒雄牧師の息子である。
どちらもクリスチャン家庭に育ち、教会を継承している。そのお2人が、日本の21世紀の若者向けに語るのである。これは聞き逃せないし、実は私も20年前に万代栄嗣牧師のメッセージで「献身」を志した者であるため、60歳を迎えようとする栄嗣牧師のメッセージが若者たちに届くのかどうか、そのあたりをドキドキしながら見てみたいと思ったのである(もちろん、自身の献身の歩みを振り返り、心新たにしたいという思いもあった)。
ジョナサン牧師は、ペテロとヨハネの歩み方を比較しながら、自分の力で神を愛する前に、神が私たちを愛してくださったという事実に目を留めるべきだ、と語られた。その語りはストレートで、余分な弛緩(しかん)した話が一切ない。緊張感みなぎる説教であった。
一方、万代牧師は、フェイスブック、ツイッター、インスタグラム、ユーチューブなどのサブカルネタを随所にちりばめながら、緩急をつけて会衆の心をつかんでいく。しかし、最後になると一気に鋭いチャレンジの言葉となっていく。
「キリストのためにあなたは死ねますか!」「自分の楽しみ、旅行、趣味、結婚や家庭などよりも、キリストを愛する決心はありますか? ない方は手を挙げないでください!」。そう語る万代牧師の姿は、20年前とまったく変わっていない。そして、その問い掛けに涙を流して応答する多くの会衆。
感動のフィナーレは、京都グレースバイブルチャーチのイーワイエスのリードによる賛美であった。ここで歌われた曲を、私は半分知らなかった・・・。もう若くない(そう言われることは分かっているのだが・・・)。次世代が確実に動き出し、人々を魅了し、神様の働きをけん引している。そのことをはっきりと示された集会であった。
大集会の是非について
ここで最後に、紙面を割いて私が考える大集会の醍醐味を幾つか列挙しておきたい。
①「こんなにもいるのか」という仲間のダイナミズム
昨今は、「大集会をしてもあまり結果がついてこない」という声を聞く。これは一面真理であるが、だからといってこのような大会をすべて否定することはできない。なぜなら、数年に1回でも、皆で集まり、「こんなに仲間がいるのか」と実感することは、私たちの信仰生活に直接的に影響を与えるからである。
特にクリスチャン人口が1パーセント未満と言われて久しいキリスト教界において、数千人(できれば数万人)規模で集まる機会は、これから減っていくだけに貴重な機会と言わなければならない。
②「お久しぶり」という同窓会的喜び
今回の大会は、日本だけに限っても北海道から沖縄まで、多くの方が来場された。そして、私もここ数年間お会いしていなかった友人たちと個人的に交わる機会が与えられた。これはとても貴重な機会である。
こういった集会に足を運ぶことで、「お久しぶり」と言い合える仲間、同窓会的に皆で盛り上がれる機会が与えられるのである。学生の時は、毎年夏や春に行われるキャンプなどでそういった再会の喜びを実感できた。しかし、社会に出て、まして牧師として教会を任されてしまうと、どうしても遠くの方とは疎遠になってしまう。だから、こういった機会を得ることが必要なのである。
③「頑張ってるな」という切磋琢磨(せっさたくま)感
しかし、単にノスタルジックを感じているだけではない。数年会わないということは、お互いにいろんな変化があるということである。そして、その変化を実感するとき、特に相手が新しい働きを形にしたり、以前話していた働きが拡大しているとき、いい意味でライバル意識がもたげてくる。「頑張っているんだな。私も頑張ろう!」という刺激を受けることになる。
今回の大会でも、多くの刺激を私は受けた。特に若い音楽奏者の成長は目を見張るものがあり、かつて私たちの世代がやっていたことの数段上を行っていることは間違いない。しかし、いや、だからこそ、おじさんたちも頑張るのである。「もうそろそろ50代」という殻を打ち破る機会を、今回の大会は与えてくれたと思う。
④「変わってないな」というレジェンドたちの姿
そして、何より実感したのは、かつて会衆席で説教を聞き、憧れを与えてくれたメッセンジャーたちの「変わらない」姿である。甲子園ミッション、ベニー・ヒン集会、2000年フェスタ、エンパワード諸集会等々、この一連の流れの中で、常に壇上で語られている憧れの牧師、伝道者たちは、今なお同じテンション、同じクオリティー、同じ熱さで語り続けておられる。これは大いに学ぶべきところである。
②、③で言ってきたことと多少矛盾するが、このような大会で時々悲しくなるのは、かつて一緒にやっていた仲間、あこがれていた諸先生方が姿を見せなくなってしまっている現実である。いろんな事情があるのだろうから、すべてを一刀両断に是々非々でくくることはできないだろう。しかし、やはり「変節してしまった」ことに対する悲しみややりきれなさはある。
かつて福音をストレートに語っていた方が、いつしかお金もうけに走って教会が迷走してしまったとか、以前は素直な信仰を持ち、共に汗を流して奉仕できていた者が、今ではどこに行ってしまったか、誰も知らない、とか。そんなことをうわさとして聞くとつらくなる。
だからだろう、なおのこと「変わらない」でいてくれるレジェンドたちに対する尊敬の念は、やがて感謝の思いになっていくのだ。
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