「新日本プロレスS誌(プロレス専門誌)取材拒否」の裏で起きた騒動によって、私たちの夫婦関係は、心配に反してより絆が深いものとなり、しばらくは、また穏やかで楽しい日々が続きました。
Aも参加した“北朝鮮プロレス興行”(1995年4月28~29日、アントニオ猪木氏プロデュースによる)のご縁で結婚された佐々木健介&北斗晶夫妻と親しくさせていただいた時期は、面白エピソードがたくさんありました。
お2人が交際をまだ公表していない頃、ツーショットのところにバッタリ遭遇した私に、「これから、北朝鮮の打ち上げで“みんな”と会うんだ!本当に本当っ! “みんな”一緒なの!」と、こちらが疑う間もなく、慌てて言い訳されたエピソードは、後にインタビュー式のエッセイ(別冊宝島)でつづらせていただきました。この一件が、お2人と仲良くなるきっかけになったのでした。
北斗さんから、試合の登場コスチュームを舞台衣装に貸していただいたり、当時、彼女が経営していた輸入雑貨店に遊びに行っては、お茶をして話し込んだり、カラオケに行ったり、プロレスラーの妻特集番組や雑誌の取材で共演したりと、公私にわたり親しくさせていただきました。
試合で歯を折ったAのため、夫妻で深夜診療の歯科を探してくださったこともありました。今のようにネットが普及していなかったので、探すのは大変でした。やっと見つかり、健介さんの車で散々道に迷いながら、やっとの思いでたどり着いた歯科、そこは、サイケなベレー帽に、指なし手袋をはめ、コタツカバーのような手編みのショールをまとった「緑魔子」似の女医さん(年齢不詳)たった1人の古~い病院・・・。
長い時間をかけてくっつけたAの歯は、微妙に歪んで固定され、さらに診断書のサインには、「手描きのオウムの絵」が!「あの先生は“人間”だったのだろうか・・・」と、帰りの車中でゾクッとしながらも4人で盛り上がったということもありました。
こんな愉快なプライベートとは裏腹に、仕事においては、長らく担当してくださったマネージャーHさんが人事異動で変わることに・・・。在籍期間中、一番長く担当してくださり、たくさんの苦楽を共にした方でした。それから数カ月の間に、なぜか担当マネジャーが何度も変わるという落ち着かない状況が続き、最終的に担当になったOさんは、私が一番苦手とするタイプの方でした。
他の事務所から途中採用で入られた方で、ホリプロには居ないタイプの人でした。“突然激昂型”で、悩みを相談していたとき、普通に聞いていると思ったら突然怒鳴られ電話を切られということもあり、何で怒るのかがまったく読めずに、怖くて何も言えなくなっていきました。トラウマがここでも起こされ、追い詰められていったのです。
さらに追い打ちをかけるように、「もうタレントは限界だと思うから、裏方(制作)になった方がいい」「フリーになった方が楽だ」などの周囲の人々の声が、徐々に私の気持ちを、ホリプロを辞める方向へと導いていきました。信頼していた方たちは、「辞めない方が良い」と言ってくれていたのに・・・。今思うと、魔法にかかっていたような気がします。
そしてついに、Oさんとの信頼関係が完全に崩れてしまう出来事が起きました。「これは、もう辞めろ!と、神様(X神)に言われているのだ」と、ついに辞めることを決意してしまったのです!
「執筆や番組、舞台の企画制作の仕事が向いていると思うので、辞めさせてください」と部長に話すと、「何か(企画)あったら、いつでも持って来なさい」と優しい言葉を掛けられ、ちゅうちょしましたが、流されるまま除籍届を提出・・・。
しかし、会社を1歩出た途端、後悔と寂しさ、むなしさが襲ってきました。まるで、魔法が解けて正気に返ったような感じでした。あんなに憧れて入ったホリプロだったのに、なんで私は辞めてしまったのだろう??と。(ちなみにOさんはその後、ほどなくして退社されたそうです。理由はいろいろ耳に入ってきましたが、真相は不明です)
現在は、新しい形(講師)で、再びホリプロのお仕事をさせていただいております。イエス様が関係を回復してくださいました。感謝です。しかし、的外れな信仰をしていた当時の私は、ホリプロの覆いを失い、坂道を転がるように落ちていくのです。
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