2011年3月から知り合えたテネシー州ナッシュビルのクライストチャーチクワイア、彼らの先遣隊が5月に来日し、多くの素晴らしい恵みを残してくれた。その後、モリース氏の逝去があり、急きょナッシュビルへ向かったが、結果的にこれがさらに彼らとの絆を深めることになった。そして9月6日から15日まで、いよいよ復興支援を前面に打ち出した「ゴスペルクワイア」が来日することになった。
事前のスカイプ・ミーティングで、来日するのが40人を超えるかもしれないと聞かされた。さすがにこれは難しいと断った。なぜなら、40人が一気に移動するには、バスを数台チャーターしなければならず、しかもホテルや飛行機の手配など、これだけで一仕事になってしまう。それよりも機動性を持って、いろいろな地域をくまなく回りたい。そんな意向を先方に告げると、彼らは「それでは20人で」という妥協案を出してくれた。
それなら何とかなる。話は夏を迎える頃にはまとまった。私がまず行ったのは、仙台のプログラムを立ち上げることであった。やはり「復興支援」だから、ここで彼らのゴスペルが奏でられることが必須だと思ったからである。
当時の教会から同年4月に仙台へ行く機会があり、そこで出会った方々にこの話を振ってみた。すると、皆がとても好意的に受け止めてくださり、瞬く間にイベントが確定した。それは以下のようなものだった。
・仙台市内の高校でのコンサート
・仙台市駅前でのストリートコンサート
・テレビ出演
・仙台ジャズフェスティバルへの出演
さらに京都市、金沢市、大阪市、堺市などでも同様のコンサートを行い、義援金を携えて仙台へ向かうことも決定した。彼らの来日を心待ちにする方々から、さまざまな「復興支援グッズ」も提供された。中でも「売り上げをそのまま寄付させてください」として製作された「クライストチャーチタオル」は素晴らしかった。
仙台へ行く前に、東京でも、ある教会が受け入れを受諾してくださり、復興支援コンサートを行えるようになった。計9公演である。
それだけではない。来日するクライストチャーチクワイアも、渡航費を捻出(ねんしゅつ)するためと義援金を手渡すために、自前でCDを作成し、これを販売することになったのである。さすがはミュージシャン主体の教会である。このようなやり方は、彼らにとっては普通のことらしい。そのサウンドがいち早く夏前に届けられた。全14曲入りで、このために新録音したりデュエットしたり、多彩なアルバムとなっていた。
さらに、彼らはぜひ日本語で歌う曲を入れたいと願っていた。そのため、『Healing Has Begun ~主のいやしが今~』というタイトルで、クライストチャーチと日本側のクワイアがコラボした楽曲を仕上げてきた。
さらに、彼らクワイアの楽曲で、クリスマスにいつも歌われる『Let There Be Joy』という曲がある。私たちはこれを(勝手に)日本訳し、京都のクワイア曲として歌っていた。そのことを聞いた彼らは、ぜひこれも日本語で歌いたいということになった。これはとてもうれしいことだった。彼らは英語圏であるため、当然英語の曲が中心となるが、日本への敬意と愛情を込めて、1曲全部日本語で歌うことを願ってくれたのである。
そのことを聞いた日から、スカイプレッスンが始まった。日本語の発音の仕方、言い回し、そして息継ぎの仕方、これらを先方のワーシップリーダーにマンツーマンで伝えるのである。1回平均90分くらいのレッスンを4、5回繰り返した。すると、見事に「日本語」となった。動画は、彼らのクリスマスコンサートでの様子。見事に日本語で歌いあげている。
7月下旬に1つ問題が発生した。それはワーシップディレクターのクリスからの1本のメールだった。「ヤス、助けてほしい。クワイアメンバー100人くらいいるが、そのほぼ全員が日本に行きたがっているんだ。こちらが選抜しようにも、やはり当落を出すのは忍びない。そこでお願いがあるんだけど・・・」という内容だった。
それはつまり、クリスが選びたいメンバーをあらかじめ私が知っておいて、その人選を日本側から逆ノミネートする、というやり方だった。いろいろ苦労しているのだな、と思ったと同時に、モリースの死を乗り越えて、それでも日本に行きたいと願う心優しい方々が居られることに感動したことを今でも覚えている。
そのため、さっそくアカデミー賞やグラミー賞よろしく、私がプレゼンテーターとなり、「日本にはぜひこのメンバーを含めて20人でおいでください」と発表したのである。どうもこれで騒動はうまく収まったらしい。
8月中旬、お盆過ぎ当たりには、来日するメンバーも発表され、ホテルの手配やケータリング、そして電車や飛行機のアクセスもきちんと仕上げることができた。あとは、来日を待つばかりとなった。
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