約束通りに来日してくれたクライストチャーチのメンバーたち。わずか6人での来日であったが、そのパフォーマンスは多くの被災者の方に恵みを注いだ。そして、私たちは歌津中学校を後にし、そのまま仙台市内へ戻ってきた。ここでストリートコンサートをするためである。場所は三越百貨店前。市内でも最も人通りの多い場所の1つである。
震災からわずか2カ月ということで、あまり人通りが多い場所ではなかったが、備えられた機材を用いて音楽を奏で始めると、一瞬にして多くの人だかりができた。1ステージ30分程度のものを3ステージ行ったが、どの回も多くの人が歓声を上げ、そして拍手をしてくれた。何よりも、そんな場所で一流の音楽が聞けるなんて、多くの方にとっては思いもよらないことだったであろう。どのステージも大盛況で、中には涙を流していた方もおられた。その時の様子を少し動画でどうぞ!
次の日、私たちは尚絅(しょうけい)学院高等学校へ向かった。朝のチャペルの時間にミニコンサートをするためであった。こんな天変地異に遭遇しても学生たちの生活スタイルは変わらない。内面には多くの葛藤や不安を抱えているのだろうが、そんなそぶりをまったく見せずに彼らは集会室に姿を現した。その健気なさまに、私たちも涙を流したことを覚えている。その後、校長先生と面会し、クライストチャーチは自分たちのCDを手渡した。
実はまだ形になってはいなかったが、この時米国ではやっていた楽曲「Healing Has Begun」をアレンジし、しかもサビのところに日本語を入れて、彼らは「復興支援ソング」を制作してくれていたのである。後にこれはCD化され、その年の12月に東北各地へ贈られることとなった。その音源はこちらから聞ける(なお、映像は同年9月に来日したときのもの)。
その翌日、私たちは仙台市役所の応接室にいた。ここで副市長を表敬訪問するためであった。そのために仙台市議の方が尽力してくださり、私たちは公的な機関との関わりを持つことができるようになったのである。副市長は、いきなり米国南部のナッシュビルからの訪問者にびっくりしていた。しかし、その趣旨を聞いて、心からお礼を述べてくださった。市議の方も副市長も背広ではなく、作業服を着ておられたことからも、当時の東北の緊急事態性がうかがえた。
仙台での一連のコンサートを終えた私たちは、次の日には京都へ舞い戻った。仙台へ来る前から、大阪、金沢など各地を回って復興支援コンサートをしていたため、この10日間はほとんど家で寝ていない状況だった。しかし、まったく疲れを覚えることがなかった。正確には疲れる暇もないくらい、時々刻々と事態は変化していた。
明日は帰国、という時に教会でお別れ会を企画した。そこには今回の来日で知り合った多くの方が来てくださった。同志社大学のゴスペルサークルに所属する大学生も大勢来てくれた。そこで先ほどの「Healing Has Begun」の日本語部分をレコーディングした。これが米国に持っていかれ、プロのアレンジャーの手によってどのように生まれ変わるのか? 共に歌った者たちは皆がそういう期待感を抱いた。
お別れ会では、6人のゲスト一人一人が涙ながらに感謝を述べてくださり、また日本の現状を憂いつつも、必ず未来が拓(ひら)けることを願います、と力強く宣言してくれた。私も最後にこの企画の中心メンバーとしてあいさつしたが、涙と感動で言葉がしばし出てこない状態であった。
また9月・・・そう皆で言い合い、ハグし、涙し、そして別れた。関空まで送るその途中で、回転ずしに入った。彼らは子どものように喜び、はしゃぎ、「9月に来たら・・・」と口々に話してくれた。
彼らと関空でハグし、「また3カ月後」と言ってお別れした。シンガーのモリース・カーターは、もう声が枯れてしまっていて、かすれ声で「Thank You」と口にするのが精いっぱいであったようだ。しかし、皆笑顔で、希望にあふれ、そして再会を楽しみにしていた。
私たちは彼らの姿が搭乗ゲートから見えなくなると、思わずその場にへたり込んでしまった。睡眠時間わずか数時間で10日間、突っ走ったからである。でも、そこに充実感があった。仙台の皆さんに喜んでいただけたという確かなものがあった。同時に、これで米国ナッシュビルとの関わりが深まることに対する期待感もあった。
あと3カ月、すべきことはたくさんある。クリストファーの話だと、9月の来日は総勢20人を考えているとのこと。今の3倍以上である。この彼らをどうコーディネートするか? それには莫大(ばくだい)な予算が必要であるし、それ以上に彼らを受け入れてくれる教会やコンサート会場を探すことが急務となった。
翌々日から私は、韓国の牧師研修に向かうことになっていた。そのため慌ててパックし、日曜の働きを終えて早めに床に就いた。寝る前にフェイスブックをチェックしようとしたとき、気になるコメントが目に飛び込んできた。
「Maurice missing!(モリースがどこかに行ってしまった!)」というものだった。彼らが無事帰国したことは知っていた。クリストファーからも報告のメールが入っていた。しかし、このコメントは一体・・・?
不安に思ったが、とにかく次の日が早かったため、そのまま寝てしまった。研修は4泊の予定。だから、荷物も結構な量となる。意識を一瞬で失った私は、翌日、フェイスブックが大変なことになっていることに気が付いた。ナッシュビル関連の友人が、皆でモリースを捜しているというのだ。気にはなっていたが、私にはどうすることもできなかった。
それから数時間、私たちは関空からインチョン(仁川)空港へと向かった。飛行機に乗る前に最後のメールチェックをしたが、モリースのその後は誰からも連絡がなかった。「見つかったのだろう」、そう気持ちを切り替えて、私はその夜の韓国料理のことに思いをはせた。
モリース・カーターが心臓発作で亡くなったという報は、次の日の早朝に届けられた。(つづく)
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