2011年3月20日日曜日。この日のことを、私は生涯忘れることができないだろう。2つの意味において。
1つは、この日が私の同志社大学神学研究科博士課程卒業式であったということ。私は2005年から同大学院神学研究科で学びを始め、米国宗教史、特にアメリカの福音派を歴史的に俯瞰(ふかん)する研究を志してきた(その集大成が『アメリカ福音派の歴史』として明石書店から発刊されている)。
特に2010年後半の半年は、生涯これほどパソコンの前に向かったことがない、というくらい集中して論文に取り組んだ。当時の教会からの理解を頂き、日曜以外はほぼこの研究に没頭できる環境を与えてくれた。
当時、小学生低学年だった息子が「パパ、教会クビになったの?」とまで尋ねるくらいの異常事態だったのだ。それは教会に集う方々も同じ思いであったようで、「青木先生、論文のために祈ってますよ」と何人もの方が応援し、実際にいろんな食べ物、飲み物を差し入れしてくれた。
そんな彼らの思いに応え、感謝を公に表せる機会がこの日の卒業式だったのである。だから日曜の午後3時からの式典には、私の教会の方々も多く参列する予定になっていた。
もう1つ、この日を忘れられないのは、そのように今まで積み上げてきたものよりも、日本の被災地復興のために、クライストチャーチの礼拝に出席し、そこでクワイアを送ってほしいと訴えたことである。家族、教会のスタッフ、そして同志社大学の学長さんにも思いを伝え、そして一応の理解を得ることができていた。
一番緊張したのは、やはり同志社学長への手紙を書いているときであった。しかし、神学部事務室を通じて「そのような働きであるなら、卒業式欠席を認めます」とコメントを頂けたとき、安堵した。
クライストチャーチの礼拝はコンサートのようであり、それでいてとても伝統的なスタイルでもあった。私は終始涙が止まらなかった。目の前に100人を超えるクワイアが居並び、お腹の下あたりに「ズン」と響くゴスペルソング、そして集まった数千人の会衆・・・。すべて桁違いで、私は自分に与えられた使命(クワイアを日本へ招聘[しょうへい]すること)を時々忘れてしまっていた。
やがて主任牧師ダン・スコット先生が壇上に上がり、私を紹介してくれた。私は手にした原稿(スマホ)を片手に、壇上に上がった。そこから見渡す光景はとても言葉にはできないものだった。多くの人々、その目が私を見つめている。その緊張感もあったが、同時に「ここにHOMEがある」という懐かしさも感じたのである。
後から分かったことだが、クライストチャーチは、私たちがかつて属していた教派ととても関わりが深い団体だったのである。私が「なつかしい」と感じたのは、そのような理由からであろう。
生まれて初めて、教会で英語でアピールした。もちろん説教ではないから、伝えるべき内容を正確に読み上げればいいのだが、やはり何度も英語を繰り返し発音し、特に強調したいところにアンダーラインをしたりして、この場に臨んだ。だから気負いはなかったが、しっかりと伝えたいポイントになると自然に力が込められた。わずか5分程度のアピールだったが、終わった後に意識が遠のくような、心地よい疲れを覚えたのは、それなりに精いっぱい頑張った故だろう。
講壇を去り、一番前に用意された席に座っていると、四方八方からいきなり手がにゅーっと伸びてきた。そして、私の頭や肩にそれらが置かれた。そして、皆で涙して祈ってくれた。私はこの時の手のぬくもりを忘れることができない。
やがて礼拝が終わった。すると私の前に次々に教会の方がやって来た。彼らは義援金を差し出し、握手を求めてきた。論文で米国人の献金は10ドル、20ドルという少額のものが多数集まることこそ真の「ささげもの」であると述べたが、まさにその通りの現象が目の前に展開していた。私はそこで受けた義援金封筒を今でも大切に持っている。さすがにお金はすぐに東北支援のために換金したが、封筒は私の宝物だ。
さらに、子どもたちが絵を描き、さらに手形を集めて日本のためにささげてくれた。これも忘れられない宝物である。私は米国人の懐深さ、そしてささげることへの屈託のなさを実感した。彼らは「日本のために祈ろう!」を合言葉に、確かにクワイアを日本に派遣することを約束してくれたのである。
感動と興奮の中、私は礼拝からホストファミリーの家に帰り着いた。礼拝後、皆で食事をし、そのまま歓談。さらに教会の中を案内され、そこで出会った方と話をして・・・とこれを繰り返すことで、あっという間に4時すぎになっていた。
部屋に戻り、メールチェックをした。すると1通のメールが飛び込んできた。差出人は神学部の教授であった。このように書かれていた。
「本日、卒業式は無事に終わりました。驚くべきことに、学長が本日の式辞の中で青木さんの個人名を挙げて、その働きを称賛しておられました。『同志社人として誇りに思う』とのことでした。よかったですね」
びっくりであった。そんな展開になるとは! 卒業式を欠席した誹(そし)りを受けることはあっても、まさか称賛されるとは思ってもみなかったのである。
これがナッシュビルとの関わりにおける最初の奇跡であった。だが、奇跡はこれだけでは終わらなかったのである。私はその週の金曜日、無事に帰国することができた。そして・・・。(つづく)
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