「ミニオンズ」「ペット」のイルミネーション・スタジオが放つミュージカル風の人間ドラマ。一見すると、ディズニーの「ズートピア」とかぶる「動物もの」だが、「歌うこと(SING)」に特化したこちらの方が、幅広い年代層にメッセージを訴えることができるように思われる。
物語は至って単純。経営が傾いた劇場を立て直そうと、歌のコンテストを開催するバスター(コアラです!)。そこにさまざまな「過去の傷」を持った歌手志望たちが集まってくる。ひょんなことからバスターは、自分が考えていた以上の賞金額でチラシが印字されてしまったことを知り、一生懸命に金策に走る。しかしうまくいかず、ついにコンテンストそのものが立ち消えてしまう。でも歌うことを諦めきれない人々(厳密には、ブタ、ゴリラ、ヤマアラシ、ネズミ、ゾウ)は、バスターと共に自分たちの手でステージを作り上げようとするが・・・、というお話。当然、ラストはハッピーエンド。
しかし、単純だからといって深みがないわけでは決してない。いや、むしろ物語の筋を追う負荷が少ない分、彼らの歌や歌詞、そしてその背景に背負っている「人生」をリアリティーあるものとして受け止めることができる。
例えば、ゴリラのジョニーは親父さんの銀行強盗を手伝わされているが、本当は歌手になりたいのだ。それを何とか伝えたいが、勇気がない。また、そんな気持ちを持っていることが父親に知られたら、愛想を尽かされるのではないかと悩んでいる。ゾウのミーナは自他ともに認める歌好き。でも、ステージに立つことを考えるだけでアガってしまい、実際に立った舞台では歌うことすらできない。
ブタのロジータは、かつて「歌がうまい」と噂(うわさ)になり、一時はその道へ進もうかと考えたこともあった。でも、今は25人(匹)の子どもたちの世話にてんてこ舞い。平凡な主婦になっている。かつての歌の情熱は持ってはいても、一歩踏み出す決断ができない。
物語は、陽気に歌って踊るだけではない。そのパフォーマンスに至るまでの背景を、丁寧に描く。そして、そこで語られる「過去」が、社会経験のある大人であればあるほど心にひっかかったり、突き刺さったりする。なぜなら、私たちも状況は違えど、同じような体験や感覚を抱いたことが1度はあるからだ。そう、これは子ども向けの形態をとってはいるが、本当は「かつて情熱を燃やしたことのある大人」に向けてメッセージを発しているのだ。
しかし、そのメッセージは決して説教臭くない。なぜなら、全て歌を通して伝えられるからである。映画は、長短合わせて60曲以上の「ヒットソング」が使われている。おそらく、洋楽になじみのない方でも、「この曲、聴いたことある」というものが数曲はあるだろう。そういう鑑賞の仕方でも十分面白い。
一方、歌詞に集中するなら、作品の「奥深さ」を再確認することになる。異なる背景を持った者たちがヒットソングを歌う。それは単に耳なじんだ歌を歌っているだけに留まらず、歌い手が背負っているモノ(過去・傷・苦悩)を透けて見せることにもなっている。さらに、そのパフォーマンスと歌詞を通して、鑑賞しているこちらの過去もまた探られ、顕在化させられる。このような二重三重の相乗効果が生み出されてしまうのだから、歌は不思議だ。
かつて私が通っていた教会に1人のご婦人がいた。彼女は何かいろんな問題を抱えているようで、いつも礼拝が終わってもその場に座り込み、そして涙を流しながら突っ伏していた。その方がいつも歌っていたのは、聖歌の「歌いつつ歩まん」であった。涙声で歌われるその歌は、子どもの私にとっては異常なものに思えた。しかし、サビの「歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ」のところに差し掛かると、なぜか顔を上げた。涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を笑顔にして歌うのである。
いつしか、その方を教会で見なくなった。彼女に何があったのか、その後どうなったのか、私には知る由もなかった。でも、大人になって1つ分かったことがある。それは、自分が同じ聖歌を歌うとき、つらくて悲しいことがあったときほど、この歌が心に染みるということだ。そのご婦人ほどではないが、サビを歌うと涙があふれてきた。
その時、やっと分かった。「ああ、あの方はきっとこんな気持ちで歌っていたのだな。つらかったんだな。だから、神様と共に歩んでいると実感できたことで、笑顔になれたんだな」と。別の人生を歩む者たちが、同じ曲、同じ歌詞を歌うことで分かり合える瞬間がある。これこそ、「歌う(SING)」ことの醍醐味(だいごみ)だろう。
考えてみれば、たかが「歌」である。されど「歌」でもある。私たちは歌を聴くとき、うまいとか下手とか、そんなところで評価をしてしまうものだ。しかし、歌の本質は、その歌詞を歌い手本人の人生で咀嚼(そしゃく)し、体全体で発せられる声に乗せて、他者へ歌い手の思いを伝えることだ。これは、私が幼い時に体験したことであるとともに、映画「SING / シング」で体験したことでもある。
劇中、全てを失って崩壊した建物の前にたたずむゾウのミーナが、ヘッドフォンから流れてくる曲に体を任せて歌うシーンがある。そこで歌われていたのは、レナード・コーエンの「hallelujah」だった。歌詞を見ると聖書をモチーフとしながら、神に対すると同時に恋人や周りの人に対して心情を訴える内容になっている。マニアックな視点を除けば、ジャンル的には「ゴスペル」と言って差し支えないだろう。
絶望の淵で、ミーナが歌うゴスペルによって、バスターはじめ皆に希望が伝わっていくという流れは、ゴスペルの歴史をそのままなぞりながら現代風にアレンジしているとも言える。ヤマアラシのアッシュは、恋人依存であった自分に決別するようにバリバリのロック「Set It All Free(全てを自由にしてやる)」を歌う。反骨精神の象徴であったロックの歴史がそのまま彼女のライフストーリーと重なる趣向だ。
そう考えてくると、礼拝で賛美(最近では「ワーシップ」)することは、まさに歌と歌い手の正しい関係を捉えていたと言えるのかもしれない。定式化されたさまざまな賛美歌、新しく生まれたCCM(コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック)、全て私たちはその楽曲を聴き、歌うことになる。でも、その背後にはその歌を生み出した人々のライフストーリーがあり、それを知らなくても、提供された楽曲を歌うことでいつしか作り手と同じ思いを抱くことができるようになる・・・。
この映画を通して、そんなミラクルがもっと起こってもいいのだと思わされた。それは、この映画が大ヒットしていることからも証明されるだろう。当たり前だけど、歌にまつわる忘れがちな「信仰」に気付かせてくれた秀作である。
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