この連載は、私(青木保憲)と米国ナッシュビルとの6年間にわたる交わりを、キリスト教的な視点から聖書に基づいて語り直すという試みである。今まで断片的に紹介することの多かった「ナッシュビル物語」であるが、これを総合的に俯瞰(ふかん)し、詳細に語ることを今までしてこなかった。
しかし、私の中で時が満ち、いよいよこれを多くの方々に語り出すべきであると確信するに至ったのである。ここで今から語られる出来事は、実際にあったことである。そして私の内面の動きは、2017年の時点で再解釈されている部分も否めないが、なるべく当時を忠実に再現しようと心掛けている。
ぜひ、日本とナッシュビルの懸け橋となり、福音宣教の一助となることを願う。
人生には、時々「どうする自分?」と問い掛ける瞬間に出くわす。「まさかそんな展開になるとは」と目の前の現状にただ立ちつくし、茫然(ぼうぜん)自失に陥ることがある。そして次の瞬間、何かを選択したり行動したりする必要に迫られることがある。
どちらに一歩踏み出すかが今後を決めることは分かっている。しかし、今までの経験値にはないため、その選択が果たして正しいのかどうか、まったく分からない。そんな混沌とした中で何かを選び取らなければならない瞬間がある。
私はそんな体験を2011年3月11日にした。場所は米国テネシー州メンフィスの安モーテルの一室であった。毎年春に行われている「米国ペンテコステ学会(Society for Pentecostal Studies)」に初めて論文発表をエントリーし、これが認められたため、私は3月10日から8日間の予定でアメリカ旅行を楽しむつもりであった。
この年、長年かけて積み上げてきた研究を博士論文としてまとめることができ、同年1月には正式に論文提出を終えることができた。夢見てきた「博士号授与」を確定させ、自分へのごほうびの意味合いからこの学会に行くことを決めた。海外での論文発表には大学から研究費が支給されるため、安上がりの「卒業旅行」ともなる。
初めはこんな軽い気持ちであった。卒業式は3月20日。その前々日に帰国すればすべてうまくいく。今まで苦労をかけた家族や教会の方々にはぜひ20日の卒業式に参加してもらいたかった。翌週27日には博士号授与の記念会も予定されていたが、やはり皆に祈られ、励まされて今まで歩むことができたのであるから、この喜びを共に味わってもらいたかった。
だが、学会会場となったメンフィスに着いて2日目、3月11日のモーテルで何気なくつけたテレビに映し出された映像は、私の甘い期待と妄想を完膚なきまでに打ち崩した。煙を上げて燃える街、車や建物を押し流す大量の泥水、東京のビルの屋上でガスマスクをつけてリポートする米国人記者の姿・・・。すべてが「非日常」的で、海の向こうのわが国でとんでもないことが発生したと伝えるのに十分ショッキングな映像であった。
かつて読んだ小説で小松左京の『日本沈没』がある。そんな未曽有の事態が起こっているのだ、と思わされた。テレビを消し、あわててパソコンを開いた。そして、ヤフーやグーグルを駆使して情報を集めた。すると、東北地方を中心に大地震が起こり、しかもその後に津波が押し寄せたのだということが分かってきた。「東日本大震災」という名称がつけられるのはさらに先のことであるが、この出来事が私の米国旅行を変えた。いや、旅行の本質を変えただけではない。私の生き方をも変える出来事となるのであった。
ネットの有り難いことは、日本で起こっていることをオンタイムで知れることである。被災地に支援の手が伸ばされ、世界各国からボランティアがやって来るようになった。しかし、うれしいことばかりではない。原発が被害に遭い、その中身が手つかずで放射能を垂れ流しにしているのではないか、との記事も目にするようになった。
学会期間中、夜はなかなか寝付けなかった。これほどの大惨事が起こっている最中に自分が米国にいるということの意味を考えざるを得なかった。「何かできないか?」、そんな思いが常に私の頭を駆け巡っていた。
学会を終え、次の日にはメンフィスから飛行機で1時間くらいのナッシュビルへ行く予定にしていた。ダニー・チェンバース牧師の教会を訪問するためであった。彼とは2009年に行われたジョエル・オースティン牧師のドジャースタジアム大会で知り合っていた。彼が牧会する「オアシス・チャーチ」を訪れ、数日楽しく過ごすためであった。
同時にもう1つ、彼の教会の近くにある「クライストチャーチ」という教会にも足を運ぶ予定にしていた。この教会は100人以上のクワイアを持ち、数多くの楽曲を生み出していることで有名であった。当時、私が勤めていた教会(京都中央チャペル)ではゴスペルクワイアを結成しており、クライストチャーチのCDをアマゾンで購入して歌っていたため、今回現地を訪問することで、新譜やスコアブックなどを購入できたらと考えていた。
ナッシュビルに着いた私を迎えるダニー牧師は、「日本のために祈っているよ」と言って抱きしめてくれた。礼拝の中で私を紹介し、教会員が涙を流して祈ってくれた。神の家族として受け入れられているな、と思わされたひとときである。この祈りの中で、あるアイデアが私の中でパチンとはじけた。
翌日、私はホストファミリーの車でクライストチャーチを訪れた。その時私の中には、「ある決意」が存在していた。それは震災の報を受けて以来、「どうする自分?」と自らに問い掛けてきたことに対する1つの回答であった。それは、「クライストチャーチのクワイアに日本へ来てもらい、復興支援のコンサートをしてもらおう」というものであった。
彼らのゴスペル(楽曲)は、日本人の私たちがクワイアとして歌い続けるなかで、多くの人に感動を与えていた。それは自分たちの教会が主催するコンサートなどで分かっていたことだ。もしその楽曲を歌う「ホンモノ」が来日してくれたらどうなるだろう? その音楽を被災地で奏でられたら? そう考えたとき、私の中に「絶望のただ中に差し込む希望の光」が生まれた。そうだ、これを提案してみよう。
しかし、問題はあった。それは、私はクライストチャーチにまったく知り合いはおらず、こんな話に彼らが乗ってくれるかも分からない。そもそも誰に話したらいいのか。
そんな思いを胸に、私はクライストチャーチの入り口に立ったのである。前の日に、ホームページにあった渉外担当の牧師へメールをしていたが、返信はなかった。しかも、大きな教会の入り口に立ったとき、あることを思い出した。「今日は月曜日だ」ということ。米国の教会、特に牧師にとって、月曜日はOFFである・・・。
「自分の選択は果たして正しいものなのか?」。私は文字通り未知の領域へ一歩踏み出すことになったのである。(つづく)
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