モリース・カーターの葬儀は次の日曜と決まった。それまでの5日間、私は5月に日本へ来日してくれた方々と共にナッシュビル観光を楽しむことになった。楽しむ、といってもやはり心の中には悲しみがあり、ウキウキとした観光気分にはなれなかった。とはいえ、いろんな面白い場所をナッシュビル近郊に発見することができた。
1つは、ナッシュビル中心街にある大きなコンサートホール。名前はブリヂストン・アリーナ。名前からも分かるように日本のタイヤメーカー、ブリヂストンが出資して建設された巨大ホールである。
もう1つは、少し郊外から離れたところにある「ラブレス・カフェ」というレストラン。これは今でも私のお気に入りの1つとなっているレストランである。南部の朝食(チキン、スクランブルエッグ、カリカリベーコン、ビスケットとフルーツ)を昼夜問わず提供しているお店で、多くの有名人、スターもここには訪れているようだ。
さて、そんな最新のホールから人里離れたところにあるレストランまで、ナッシュビルを少しずつ理解し始めた私であったが、葬儀が近づくにつれてだんだんと緊張が高まってきた。というのは、ゲストの1人としていわゆる「弔辞」を述べることを仰せつかったからである。しかも英語で(笑)。
毎晩、電子辞書を片手に本文を作成し、それを直すという作業にいそしんだ。最後にクリストファーに添削を受けた。かなり大幅な訂正がなされていたので、うれしいやら悲しいやら・・・。葬儀を前に、私の感情もよく分からない状況に陥っていたのだと、今だから思う。
そして日曜日の礼拝後、いよいよモリースの葬儀が行われることとなった。考えてみると、外国の葬儀なんて生まれて初めてである。よく映画中では目にするが、果たしてどんなものだろうか? そんなちょっとした興味も湧いていた。
まずびっくりしたのは、葬儀に参列するモリースの家族たちの服装であった。皆、真っ白である。私たち日本人の常識からは考えられない。しかも皆、モリースの写真がスクリーンに映し出されると、手を叩いたり、笑い声が起こったりした。
さらに追悼の歌が始まると、私は「ここは本当に葬儀なのか?」という思いに襲われた。なぜなら、アップテンポなビートに溢れたブラックゴスペルが数曲奏でられ、それに合わせて皆が立ち上がり、手を打ち鳴らしながら踊り出したのである。
モリースのためにということで結成された合同のクワイアが、ステージの背景に所狭しと居並んでいた。彼らもまたこのサウンドに合わせて思い思いに踊り出し、歓声を上げていた。その様子はこちらの動画から。
そして、司式者の合図で皆が椅子に座り、こちらは結構重々しい口調で式辞が述べられ始めた。その中の文言を聴き、私は先ほどの光景を納得できた。司式者であるダン牧師はこう語られた。
「私たちは確かに一時的な悲しみに包まれています。敬愛するモリースにこの地で出会うことはできません。しかし彼は今、主と共に天に居ます。彼の人生が完成したのです。ですから、悲しみのひとときであると同時に、実は喜びの時でもあるのです」
そう思って葬儀のタイトルを見ると、こう掲げられていた。「The homecoming celebration of Maurice Carter(モリース・カーター氏の天への凱旋を祝うひととき)」
私たち日本人クリスチャンも、同じようなことを語ることがある。「天へ凱旋しました」と牧師は説教する。しかし、やはりどうしてもしめやかな、暗く悲しみ色に満ちた式典になりがちである。一方、米国南部の葬儀は、まさに祝祭(celebration)であった。それは、白い衣装で天国のイメージを身にまとった遺族たちの様子からも十分つかみ取ることができた。
私の弔辞も、自然と華やかな「説教」へと変貌した。決して笑いを取るはずのない箇所で、モリースの日本での行状について語ると、まず遺族から大きな笑い声が生まれ、やがて会場全体が爆笑の渦に巻き込まれていった。こんなに晴れやかですがすがしい葬儀は生まれて初めてであった。私の弔辞(説教)は、次の聖書の言葉で閉じられた。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節)
その後、さらに大きな衝撃が私を待っていた。それは、モリースの亡骸を埋葬することであった。教会から棺が運び出され、そのまま教会墓地へと車で運ばれるのだという。
「え!焼かないの?」。これが私の最初に抱いた感想である。そう、米国は土葬が基本なのだ。
墓場に着くと、大きなクレーンがすでに設置されていて、そのアームが彼の亡骸をしっかりとつかむ。そしてゆっくり、ゆっくりと掘られた穴に棺が入れられていくのであった。この瞬間、今まで笑顔を絶やさなかった遺族の中からおえつや祈りの声が大きく聞こえてきた。私も思わず涙したし、主に祈った。
司式のダン牧師がアカペラで歌い出す。それに合わせて、皆が自然にハモりをつけて歌い出すところなど、ちょっとかっこよすぎるが、いずれにせよ米国式の葬儀を初めて体験し、私は大いに感銘を受けることとなった。
日本のために、1粒の麦となったモリース。彼の死は確かに悲しく、そして大きな衝撃を私たちに、またクライストチャーチに与えた。だが、それは単なる悲劇ではなかった。彼の死を通して、その後多くの実を結ぶ出来事が日本で生まれてきたからである。そのことは、またあらためて紹介することにしよう。
ここで少し蛇足を。葬儀の様子は、地元のテレビでも放映されていたらしく、多くのナッシュビル市民がこの様子を見ていたようである。次の日、私が何気なく「ターゲット」へショッピングに行くと、レジのお姉さんがいきなり「オゥ!」と叫び出すではないか。私は一瞬何が起こったか分からず、その場に固まっていると、彼女がこう尋ねてきた。
「あなたは、昨日のモリースの葬儀で面白いジョークを飛ばした日本の牧師さんですか?」。いえ、別にウケを狙ったわけではないのですが・・・。
一躍、私はナッシュビル市内で一番有名な日本人になってしまったようである(笑)。
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