韓国研修から一転、太平洋を渡ってナッシュビルへ到着した私は、クリストファー&アマンダ夫妻の家に泊めてもらうことになった。関空で「次は9月ね!」と別れてから、わずか4日後の再会である。うれしいような、しかし、事がモリースの死だけに悲しいような、そんな複雑な思いが交錯するひとときであった。
次の日、まずクライストチャーチへ出向いた。そこで主任牧師のダン・スコット先生と再会し、また日本に来られたメンバーとも会うことができた。私としても、わずか3カ月前に初めてここにやって来たばかりなので、このハイペースの動きに戸惑いを隠すことができなかった。
ダン先生から「この後、モリースのお母さんの所へ行きましょう」と言われたとき、私は浮わついた再会ムードが一気に吹っ飛んでしまうことを感じた。息子を失ったお母さんの前に、私は一体何を言えばいいのだろう? 私の中に、1つの恐れがあった。それは、私たちがモリースを酷使した結果、彼が死期を早めたのではないか、という解釈である。もしお母さんがそう感じているとしたら、私は「最も会いたくない者の1人」ということになるだろう。
車の中で、私の口が、ノドが乾いていくのが分かった。言葉を出せないのではないか?そんな気すらした。しかし、そんな私の感情などお構いなしに車は進み、やがてあるアパートに到着した。ここにモリースとその家族が住んでいるという。彼は独身であったため、今でもお母さんや妹さんと一緒に住んでいたようである。
車を降りて、アパートの一室に私たちは向かった。扉をノックするダン先生。ほどなくして、中から子どもたちと共に1人の男性が出てきた。モリースのお姉さんのご主人であった。「母は中にいます」、そう告げた。私の緊張はマックスに達した。
「いきなり土下座でもしようか?」、本気でそんなことを考えながら、私は奥の部屋に通された。その部屋には大きなソファが備え付けられていて、その真ん中に初老の女性が座っていた。モリースのお母さん、ヴァーマさんである。
私は彼女を見たとき、涙があふれてきた。それを見て、ヴァーマさんは立ち上がり、私を優しく抱きしめてくれた。そして「よく来てくれました」と張りのある声で私に語り掛けてくれたのである。私は涙を拭きながら、「訃報を受け、ナッシュビルまでやって来ました。日本でのモリースの働きを通して、多くの方が慰めを得ました。ありがとうございました」とカタコトの英語で何とか伝えた。
ヴァーマさんは私を座らせ、しばらく天を見つめていた。それからこう尋ねた。「息子の日本での様子を教えてください」
私は、各地で行われたコンサートのこと、ワークショップでみんなが真剣に彼のアドバイスを聞いていたこと、そして東北へ向かい、そこで行った復興支援コンサートのことなどを伝えた。特に歌津中学校でモリースの歌を聴いて希望を持てたというおばあさんの話は、ヴァーマさんに聞かせてあげたかった。
私も必死で知っている限りの単語を並べるようにして、語った。いかにモリースが私たちのために多くの犠牲を払ってくれたか、そして大きな恵みを与えてくれたかを語った。聞いていたヴァーマさんは、涙を流したり、うなずいたりしながら、つたない私の英語であるにもかかわらず、一生懸命に息子の最後の姿を胸に刻もうとされていた。
一通り話が終わった後、ヴァーマさんは私の目を見据えて、次のように語った。「青木先生、ありがとうございます。息子の最後の姿を知ることができて本当にうれしいです。わざわざおいでくださりありがとうございます。私はあなたからお話を伺い、はっきりと分かったことがあります。モリースは神様に精いっぱい用いられ、そして天に帰って行ったのです。だから、これは悲しむべきことではありませんね。むしろ喜ぶべきことです」
私はわが耳を疑った。まさか息子を失った母親の口から、「これは喜ぶべきことです」という言葉が出てくるなんて・・・。ヴァーマさんはこう続けた。「実は日本へ行く前、私は息子を止めようとしました。なぜなら、彼は糖尿病、心臓病など多くの病を患っていましたから。あなたは地元では一応名の通ったシンガーでしょ、それなのにどうして極東の国、日本に行かなければならないの?そう言って止めようとしたんです」
耳の痛い話である。モリースは来日する前から満身創痍(そうい)だったとは・・・。ヴァーマさんは続けた。「その時、息子はこう言ったの。『お母さん、僕はゴスペルを歌うシンガーなんだよ。神様が行けと言ったら、行かなくてはいけないんだ。それが僕の選択した道なんだ。今回、日本からやって来た青木という牧師は、まさに神の使いだよ。だから僕は、たとえ僕がどうなっても、日本へ行くよ』とね」
次の瞬間、ヴァーマさんはいきなり笑顔になった。そして「神に精いっぱい用いられて天国に行った息子のこと、私は誇りに思います。彼は持てる力をすべて使えたのだから、幸せだったのです」。そしてお姉さん、その後、主人らと共に手を叩いて笑い出したのである。
この光景を見ながら、私の心に1つの聖書の言葉が浮かんできた。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節)
彼らは真のキリスト者であった。私たちは聖書の言葉を聞きかじり、そしてそれを人生の指針としていく。そのために聖書を読み、礼拝に集い、また暗唱聖句をする。しかし、いざとなったとき、本当に自分の息子が亡くなったとき、「息子は神様に存分に用いられたのだから、喜ぶべきだ」などと言えるだろうか。そう言い切れる「現場」に出くわしたとき、私は彼らの貫徹した信仰の在り方に言葉を失ってしまった。
そしてこの時、ナッシュビルに来て本当によかったと思えたのである。
モリースの葬儀はそれから5日後の、礼拝の後に決まった。私のナッシュビル滞在も1週間を越えることになる。私はその時思った。ここで吸収できるものを存分に吸収しよう、と。そして彼らの信仰、生き方、そしてここにあるすべてのものを、いつか必ず日本に紹介しよう、と。それだけの価値のあるものに私は今遭遇していると思えたのである。
◇