竹下節子著『キリスト教は「宗教」ではない 自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜』(中公新書ラクレ、2017年10月)
わずか200ページ余りの新書であるにもかかわらず、読み通すのに2週間かかった。決して難解な書物というわけではない。むしろ文体は平易で分かりやすく、論の展開も先が予想できる、いわゆる「読みやすい」内容になっている。しかし、時間がかかった。それは、読み手の興味関心を刺激し、はたと本を閉じて考えさせる内容が、あえて短いフレーズで語られているからである。
著者はフランス在住の比較文化史家であり、カトリック信者でもある。この視点が本書を他のキリスト教史とは異なる存在に押し上げている。日本で発売されている「キリスト教関連本」のほとんどは、プロテスタント的視点で語られている。カトリックの司祭などが出版していても、それはキリスト教になじみのない方々に新旧キリスト教の区別なく「教えやものの考え方」を説く、というスタイルであった。対抗軸としてのプロテスタントを意識しながらカトリックの視点を際立たせるという手法を用いている本書のような存在を、私は他に知らない。
まず、タイトルが刺激的である。「キリスト教」という世界三大宗教の一角を担う存在に対して、「(カッコつきで)『宗教』ではない」と訴えているのだから。
この感覚は、実は私にとっては懐かしい響きを持つ。保守系ペンテコステ諸派に属する教会に通っていたため、礼拝やユースキャンプなどでよく説教者が「キリスト教は宗教ではありません」と声高に叫んでいた。その意味は、「そこに命がある」「これこそが真理」「巷(ちまた)にあふれている諸宗教や哲学のように難しいものではない」という類のものであった。本書で筆者が語っているのは、そのような感情的で主観的なものではなく、むしろ歴史的で普遍的な概念を訴えている。
筆者は、「キリスト教」を大きく3つに分類して論を展開している。まず、イエス自身がユダヤ教の律法主義的硬直状態を批判し「自由と平等」を訴えたとされる「『イズム』としてのキリスト教」。これは、イエス自身の思いや熱さが原初的に語られる段階であるため、筆者の言葉で表現するなら「生き方の指針」に共感した者たちが自発的に集団を形成した時期ということになる。
続いて起こってくるのが「『信仰』としてのキリスト教」。ここに至り、ユダヤ教を糾弾して教派内改革を直接的に目指していた視点から離れ、世界へ目を向けるようになる。ここから真の意味での「キリスト教」が生まれ出ることになる。
ユダヤ教とキリスト教における「信仰」の対比のさせ方が面白い。前者は教派内における刷新で歴史に生き残ろうとしたため、その名の通り「ユダヤ人」の一宗教として存続するのみであった。一方キリスト教は、イエスの訴え(イズムとしてのキリスト教:自由と平等)を受け継ぎ、それを「神の国」という概念で外に向かって訴えていった、というのである。前者が「内包的」であったのに対し、後者は「包括的」であった。そのため、当時の異邦人やユダヤ教圏ではない人々にもイエスの主張は受け入れられていった、と分析している。
その意味では、イエスの教え(自由・平等)に依拠した生まれたての「キリスト教」は、ユダヤ教や当時の諸宗教の枠組み(支配構造)を打ち壊すことで、既存宗教から「脱宗教化」する道を人々に説いたということになる。この考え方を受け入れた人々、すなわちイエスを信仰の対象とする集団がそこに生まれてきたのである。
やがて次の段階へ「キリスト教」は進む。それは後に「カトリック」と自らを称する西方教会が、支配体制機構を持つ「宗教」としてヨーロッパ社会に君臨する時代の到来である。そしてここからが本書の肝である。第三章、四章あたりから伝えられる情報量が多くなるため、面白いのだがなかなかすっと読み進められないというジレンマが生じ始める。
ご存じのように、カトリック教会は「中世」という千年間を経ることで、イエスの教えとはかけ離れた所業をさらけ出すことになった。しかしその背景にあって、自由・平等(そして博愛)の普遍的価値は決して失われることはなかった。筆者の言葉を借りるなら、次のように言える。
「宗教」としてのキリスト教が真の普遍主義に脱皮していった基盤となる思想が「イズム」としてのキリスト教の中にあり、植民地主義や帝国主義という蛮行にもかかわらず、のちの国際主義、自由民主主義、社会民主主義などのグローバルなスタンダードを少しずつ形作っていった。
そして、本来はイエスの教えからスタートしている「自由・平等・博愛」の精神は、むしろ欧米的「宗教性」を脱した「近代スタンダード」としてこれらを受け入れていった、と語られている。特に第四章では、その一例として日本宣教の場合が語られ、遠藤周作の『沈黙』が投げ掛けたテーマを見事にすくい上げている。
キリスト教史、および世界史の教科書で描かれる流れは、1517年(ルター登場)以降は、どうしても主役がプロテスタント陣営になっていく。そちらから見たカトリックは?という視点である。しかし、本書はあくまでもカトリック内で何が考えられ、人々がどんな動機で新たな改革に乗り出していったかが分かる。そういった意味で、宗教改革500年の本年だからこそ読まれるべき1冊と言えよう。
竹下節子著『キリスト教は「宗教」ではない 自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜』(中公新書ラクレ、2017年10月)
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