日本バプテスト教会連合上福岡バプテスト教会牧師を務める荒木寛二(かんじ)さん(75)は、太平洋戦争の末期、米軍が広島に投下した原子爆弾で被爆した体験を持つ。
当時、3歳だった荒木さんは、原爆が炸裂した爆心地からわずか約1・5キロメートルの距離に家族で住んでいた。爆心地から2キロ以内の家、物、すべてが「壊滅的被害」を受けたと資料に記録されているとおり、荒木さんが住む一戸建ての家も爆風で吹き飛んだ。
両親はホーリネス系の教会に集うクリスチャンだった。原爆が投下された直後、母親のキクさんは、気付くとつぶれた家の屋根の上に座っていたという。命が助かったことにまず感謝の祈りをささげ、すぐに子どもたちを探したところ、幼かった荒木さんはがれきの間から出てきた。その話を何度もキクさんから聞いて育ったという。
3歳なので記憶はないが、今も顔や頭に傷跡が残り、首にはガラス片が入ったままだという。「ちょうどガラス戸の近くにいたので、爆風でガラス片を浴びたのだそうです」。その時、左半身は大けがを負ったが、それでも生き延びることができた。
「今思えば、本当に奇跡ですね。周りで生き延びた人はほとんどいなかったのではないでしょうか」
しかし、間もなく中学1年生だった長男が亡くなった。家族は一時的に親戚を頼って隣の山口県で暮らしたが、すぐに広島市内に戻り、家を開放して教会を始めた。それが現在の単立広島キリスト教会(植竹利侑名誉牧師)となった。そして荒木さんが小5の時、両親の仕事の関係で上京した。
荒木さんは、牧師室の机の引き出しから1冊の小さな手帳を取り出した。「被爆者健康手帳です」。手帳には、直接被爆者を示す1号表記があり、爆心地から1・5キロメートル圏内と記載されていた。
荒木さんは今、改めて平和についてどう考えているのだろうか。
「被爆者は直接、その恐ろしい光景を見ているので、当然、核兵器には反対をします。最近では核兵器禁止条約に日本政府は署名しませんでしたが、いかなる理由があるにしろ、まずは署名してから明確な意思表示をすればいいのです。他国へ対しても印象がよくないですよ。核兵器は矛盾しています。『抑止力』と言いますが、結局は殺りくですからね。この『抑止力』という言葉も曖昧。幻想のように感じてしまいます」
「クリスチャンにとって平和とは何か」と尋ねると、荒木さんはこう答えた。
「まずは神との平和でしょうね。『みこころの天なるごとく、地にもなさせたまえ』というイエスさまの祈りです。信仰も同じです。日本の地でいまだにクリスチャンが1パーセントに満たないのは、私たちが信仰に徹底していないことも原因かもしれませんね」
普段は穏やかで優しい荒木さんが、大きな声で平和について思いを語る。原爆を体験したからこそ語られる本物のメッセージだ。
記者は、日本に赴任して間もない米国人宣教師と広島平和記念資料館を見学したことがある。彼は、自分が学んだ原爆被害と現実との違いに言葉を失った。「原爆は数百メートルくらい火事になった程度だと思っていた。街が丸ごと消えている。言葉が出ない」
この話を聞いた荒木さんは、次のように静かに述べた。
「米軍が原爆投下後に被爆者の調査を行ったのですが、そのようなデータがきちんと公開されればいいなと思います。10年、20年すれば、原爆を体験した人がいなくなります。語り継がれることは大切ですね」
同席した長男の牧人(まきと)さんは言う。「ふだん父は寡黙なので、このような話はなかなか聞く機会がありませんでした。父の被爆者健康手帳も初めて見ました。今日の取材がなければ、一生見られなかったかもしれませんね」