のどかな田園風景が広がる長野県松代町。千曲川がすぐそばを流れ、松代城跡や真田邸などがある観光地としても有名だ。この地には、決して忘れてはいけない戦争の悲しい爪痕が残されている。
松代象山地下壕(まつしろぞうざんちかごう)。第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、大本営、政府各省等をここに移転する計画が極秘のうちに進められていたのだ。1944年11月11日から翌45年8月15日の終戦の日まで、およそ9カ月という短期間のうちに工事が行われたが、大本営として使用される前に戦争は終わってしまった。この事実を知っている日本人は少ない。
建設には当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、労働者として多くの朝鮮人や日本人が強制的に動員されたという。戦後は置き去りにされていた巨大な地下壕だが、やがて長野市が調査し、後世に語り継ぐべき戦争遺跡として保存に取り掛かった。そして89年から一般公開を始め、年に2万人近い人が観光に訪れているという。
この地が選ばれた理由として、長野の人は純朴で口が堅いこと。田園地帯が広がり、軍事工場など米軍の攻撃対象になるものが何一つないこと。そして、地下壕が建設された象山一帯は固い岩盤で、爆撃にあっても被害を受けにくいということがあったようだ。実際に長野市街には終戦間際、数個の爆弾が投下された程度で、ほとんど米軍機は飛来しなかった。
72年前、この工事現場に動員されたという野沢貞雄(さだお)さんは、今回の取材で戦後初めてこの地下壕を訪れた。足腰が悪く、杖(つえ)をつきながらだが、それでも何とか一目トンネル内を見たいと、必死に現場へ向かった。
岩肌に空いた地下壕の入り口に着くと、指定のヘルメットを装着する。中は当時のまま保存されており、風化によって一部は崩落の可能性もあるからだ。ここは長野市観光復興課によって一般公開され、自由に見学できるようになっている。「ぜひ案内したい」と、野沢さんはこみ上げる思いを口にした。
長野県千曲市出身の野沢さんは現在87歳。14、5歳の頃、学校で「お国のために重要な奉仕がある」と告げられた。薄れゆく記憶の中で、確実に覚えていることと不確かなことが交差しつつも、長年忘れることのできない記憶があるという。野沢さんはそれを「なつかしさと、当時の悲しい記憶で、複雑な胸中だ」と語る。
当時、野沢さんたちはトラックの荷台に乗ると、車に揺られて千曲川の川岸を走った。そして、丸い山の下に着いたところで降りたという。「周囲は何もないところだった。軍用車が止まっていたので、基地か何かに来たのかと緊張した。そこには大勢の憲兵がいた。格好ですぐ分かる。あちこちにいた。憲兵はおっかないからな」
野沢さんたちは山の麓にある小さな穴に入った。その中はところどころに明かりがともされていたが、暗くて、火薬のような臭いと、労働者の汗の臭いが混ざり合ったすごい臭いがしたという。
「ここで何を造っているか、最初はよく分からなかったが、トンネルの中で憲兵が学生に『ここが日本の要(かなめ)となる』と言ったのは覚えている。えらいところに来ているんだなと思った」
迷路のように張り巡らされたトンネル。それを奥へ進むと、削り取った大きな石がトロッコに積まれ、そこに大勢の人間が数珠つなぎになって働いていた。「ずーっと向こうまで人だらけだった」
そこで野沢さんは忘れもしないという光景を目にする。「バシーン」と鞭(むち)のようなもので労働者がたたかれ、「何やってんだ、貴様」という罵声が坑内に響き渡る。労働者が殴られたり、蹴られたりしながら働いていたのだ。その時、同行した先生に「朝鮮人村の人たちだ」と聞かされたという。それまでうわさでは朝鮮人村があると聞いていたが、野沢さんはその時初めて、朝鮮人がここに住み、働いていたことを知った。あまりにむごい仕打ちに「これはひどいな。かわいそうだ」と恐ろしくなったと野沢さん。
日本人の学生たちは、労働といっても、トロッコを押すなどの軽作業で、危ない仕事は何一つしなかった。それに、数日通って、またしばらくして通うという交代制で、トンネル外での作業が多かった。一方、朝鮮人労働者は、トンネル内で固い岩盤を砕いたり、岩石に火薬を仕掛けて爆破したりする危険な仕事をさせられていた。
「ダーンと発破を掛けると、すごく揺れて、そのせいか、けがをしたり、死んでいるような人も見たことがある。布をかぶせた亡きがらをたくさん見たよ」
この地下壕の強制労働に従事したクリスチャン朝鮮人を描いたアニメ映画「キムの十字架」(1990年)にも描かれているが、地下壕には岩肌に刻まれたハングルや十字架が残っているといわれている。
地下壕入り口の横には、朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑が建っている。野沢さんはヘルメットをかぶると、入り口に向かって一礼し、「悪いことをしたな」とつぶやいた。
足もとは、天井から滴る地下水でぬれており、電灯がともっているが薄暗い。急な坂を下りるように穴の中を進んでいくと、迷路のように幾つも道が分かれている。見学できるのは延長約500メートル区間。地下は総延長で13キロメートル近い。
トンネル内には軍高官の部屋やNHKの放送室、正確には分からないが軍人のための娯楽室や慰安所もあったといわれている。ほとんどの区画は立ち入り禁止となっており、独特な雰囲気が漂う。
トンネルを出ると野沢さんは、「もうここに来るのは最後だな」と誰にともなく言った。
野沢さんはもともと仏教徒で、田舎のお寺やお墓を大切にしながら育ってきた。妻を病気で亡くし、今は埼玉に住む長女のもとで暮らしている。長女もその子どもたちもクリスチャンで、「いつか神様を信じてほしい」と熱心に祈られてきた。かたくなに教会へ行くことを拒んできた野沢さんも、2年前のクリスマスにひ孫と一緒に洗礼を受けることができた。「もう何も失うものはない」。そんな素朴で純粋な信仰告白だった。足腰が不自由ながらも、ほぼ毎週のように家族と一緒に埼玉県内の教会へ通い、礼拝に出席している。
「本当に教会はいいな。楽しい。やはり平和が一番だな。もうあんな戦争はごめんだね」