長野県飯綱町。澄んだ空気に四季折々の自然が宝のように美しいこの地は、信州のりんご畑と手作りのぶどう畑に囲まれる「サンクゼールの丘」だ。キリスト教の精神を重んじ、それが海外では「信頼の証し」、日本では「成功の秘訣」と話す株式会社サンクゼール創業者・代表取締役社長の久世良三(くぜ・りょうぞう)さん。1979年の創業以来、多くの人を魅了し続けてきた「最高の田舎づくり」のレジェンドだ。国内で100店舗を超える大企業に成長した今も、国内外を舞台に「まだまだ夢がある」と語る久世さんに話を聞いた。
「サンクゼールのコンセプトは、Country Comfort。田舎の恵みと上質な時間を、食卓へ。成熟した大人たちの時間と、文化への感動そのものが、サンクゼールのコンセプトです。フランスに負けないくらいの魅力的な、豊かな信州の自然。おいしい食事を家族や友人と囲み、会話をし、同じ時を分かち合うこと。この世界観をお客様と実現していただけるような商品やご提案がサンクゼールのミッションです」(サンクゼールのホームページより)
サンクゼール創業者、代表取締役社長の久世良三さんに聞く
久世さんは1950年、東京の池袋生まれ。父親は、地元で久世商店という冷凍の肉や魚、ワインにジャム、ソース等、いろいろな食材をレストランやホテルに売る商店(問屋・メーカー)を営んでいた。父親の会社に入り、長野のスキー場やホテル、ペンションに営業に出た久世さんは「空気がきれいな長野にいつか引っ越したい」と考えていた。当時は高度成長期。光化学スモッグなどの公害が社会問題となっていた時代だ。夢だったスキー場でのペンション経営への思いは、どんどんと膨らんでいった。
25歳の時、父親の了解を得て、貯めてきたお金と父の保証で銀行から4500万円を借り、斑尾(まだらお)高原で念願の「PENSION KUZE(ペンション・クゼ)」をスタートした。1975年、営業2日目に客として訪れた女性が、妻のまゆみさんだった。なんともロマンチックな出会いだ。
久世さんのスキーの腕は一流。大学のスキー部でキャプテンを務め、スラロームでは、東京の5大学で優勝経験を持つ。夫婦で働き、親族や友人、後輩たちがペンションに住み込んで助けてくれた。仕事は順調だった。子どもも2人授かった。
ところが、長男が生後9カ月で病気にかかり、まゆみ夫人は病院での看病とペンションの仕事に追われていく。まゆみ夫人は、久世さんに切り出した。「料理が大変。仕事ばかりでつらい。ペンションと結婚をしたのではなく、あなたと良い家庭を作るために結婚した」。そう言って、横浜の実家に帰ってしまった。
久世さんは「たった1人の人も幸せにできない。悲しませてしまった」という現実にショックを受ける。まゆみ夫人は「普通の愛のある家庭を持ちたい。ペンションは辞めてほしい」と思いを伝える。「自分にはペンション経営の夢がありました。でも、ひとまず方向転換はするので少し待ってほしい。数年は続けさせてほしいと頼みました」。こうして2人は、ペンション経営を続けていく決意をする。久世さんの夢は揺るがなかった。
久世さんは、ペンション経営と並行して「レンタルスキー」や「教科書販売」のビジネスもスタートした。順調ではあったが、「労働集約的な感じで、ペンションを辞めるほどではありませんでした。何か喜びがなかったです」。
ここで大きな転機が訪れる。サンクゼールで創業以来、人気を誇る「まゆみ夫人の手づくりジャム」の登場だ。
「ペンションの朝食に出していた妻の手作りりんごジャムがおいしいと評判になりました」。1979年、久世さんは「斑尾高原農場」のブランド名でジャムの販売事業を始めた。「委託工場を見つけ、レシピを提供し、販売事業を始めました。ジープいっぱいにジャムを積んで、飛び込みセールスで売りました」。サンクゼールの魅力がたくさん詰まったブランドブック『サンクゼール物語』を手に、当時の様子を懐かしそうに語った。
ジャムは、ペンション・クゼで販売コーナーを作り、仲間のホテルに委託販売で置かせてもらった。「飛ぶように売れました。これは面白いなと(笑)」。ジャムが成功し、着々と資金が貯まる中、「借金も返せるようになり、妻が望んでいた安心して住める家族だけの家を長野に建てることができました」。
やがてお客さんから「農場や工場見学をしてみたい」という要望を聞くようになる。「実際は農場も工場もなかったので、お客さんの期待を裏切っているように感じ、これはまずいなと思うようになりました」
フランス・ノルマンディー地方で出会った理想の田舎に魅せられて
久世さんとまゆみ夫人は結婚後、ペンション経営にジャム販売事業と、多忙な日々を送り続けた。1984年、新婚旅行代わりに、フランス北部のノルマンディー地方を訪ねた。「そこはシードル街道、素敵なりんごの農村地帯でした。日本にはない美しい風景に感動しました」
「りんご畑の中に牛がいて、家、農場、工場があるのです。これは素敵だなあと感じました。当時は、クリスチャンではありませんでしたが、村々に教会があって人々がワインを楽しみながらゆっくりくつろぐ姿に感動しました」と、まるで昨日のことのように感動体験を語ってくれた。
思いを抱き、思いを形にする
フランスの風景に感動した久世さんは、この美しさを日本で再現したい、という思いに駆られる。時代は高度成長期で、5年後にはバブル期を迎える。田舎といわれる素朴な風景が失われ、目まぐるしく変わりゆく人や風景。「私が生まれ育った東京池袋もどんどん近代化していきました。アパートが乱立し、素朴な風景がなくなっていきました」
「いつか日本も高度成長期が終わって、田舎の豊かさを本物の場所で楽しめる時が来る。自分が作りたい」。モデルはフランスだ、そう確信したという。
フランス旅行から帰国した久世さんは有言実行。すぐにペンション近くの村に出向いて「ジャム工場を作らせてください」と頼んで回った。村々の村長から断られてしまうが、三水村(さみずむら:現在の長野県飯綱町)の村長だけは了解してくれた。村政100周年記念行事の一環である企業誘致として土地を購入し、サンクゼール創業へ向け歩み出したのだ。「フランスで見た世界観を再現できる土地を探し求め、たどり着いたのが小高い丘の上でした」
1988年、飯綱町の丘の上にジャム自社工場を建て、ワインの製造もスタートした。翌年には、眼下にぶどう畑が広がり、美しい飯綱の田園風景を一望できるワイナリーレストラン・サンクゼールをオープンした。念願だったサンクゼール本店開業を翌年に実現した。「直営店展開とともに、ジャムだけでなく、パスタソース、ドレッシングなど、幅広く自社で開発、製造するようになりました」。こうしてサンクゼールの歩みが始まった。
苦しみから解放してくれた聖書の言葉
念願の土地は得られても、決して安泰ではなかった。久世さんは「ジャムの稼ぎで得た資本金で、これだけ大きな土地を賄うのは厳しかった」と当時を振り返った。しかも、レストラン、ワイン事業で借金は膨らんでいくばかり。「銀行は当然、回収をしなければなりません。債権不良に陥ってしまいました」
8億円という借金に対し、会社の売り上げは6億円という現実に立たされた。久世さんは、大変な重圧に悩まされていく。「寝ても覚めても借金のことで頭がいっぱいになりました。鬱(うつ)状態になって睡眠薬を飲んでも寝付けませんでした」。追い詰められた久世さんは、声が出なくなり、「人生終わった」と感じたという。
ちょうどその頃、まゆみ夫人はクリスチャンになったばかりだった。夫人が毎日ベッドで読んで聞かせてくれた聖書の言葉を聞くと、ほっとして眠ることができたという。久世さんは、次第に聖書を手に取るようになった。「2つの聖句が私の心に響きました」(続きはこちら>>)