日本宣教を後押しすることを目標に、さまざまな事業を提案してきたが、キリスト教葬儀を希望する未信者家庭が予想以上に多く、彼らに正しく関わることが、日本宣教の重要なカギになると考えるようになった。
教育・福祉の分野や結婚式を通し、キリスト教が日本社会に与えた影響は非常に大きく、未信者であっても多くの人がキリスト教に良い印象を持っている。キリスト教会とまったく接点のない家庭からもキリスト教葬儀依頼が頻繁に入る。
ある日の夕暮れ時、未信者家庭より突然連絡が入った。お父様が重篤な状態に陥り、葬儀の準備をしたいとのことだった。教会とのつながりは一切なく、賛美歌を好んで歌っておられたという理由だけで連絡を下さった。
私は電話で状況を伺った後、ご家族の了解を取って、すぐに病院に駆けつけた。病室のベッドには、すでに意識はなく、すべての延命治療から解放され、死を待つばかりのお父様をご家族が取り囲んでおられた。
私は、しばらく状況を伺い、ご家族の思いを確認しながら、お父様に手を添えて祈り、お父様の好きな賛美歌を歌い、また祈りを積んだ。ご家族の気持ちを天のお父様に届けたい一心だった。
短い訪問だったが、主ご自身が共に寄り添ってくださるときだった。帰り際、病院の玄関まで送ってくださったご子息の手を取り、主の助けが与えられるよう祈ったとき、彼の目には涙が溢れていた。
数日後お父様は召され、葬儀を司式させていただいた。親族の中で初めてのキリスト教葬儀だったが、葬儀の後、ご家族は信仰を持つことを宣言された。
キリスト教にあこがれ、賛美歌を愛唱しておられた故人は、教会に集われていたわけでも、信仰告白したわけでもない。しかし、司式の場で私が紹介した聖書箇所は以下の通りだった。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ人への手紙3章26節)
福音を信じて神の子どもとなり、永遠の命の保証を与えられる聖書の教えからすれば、未信者の葬儀におけるメッセージは、一般恩恵(すべての人に共通に与えられる恵み)だけに留めるべきかもしれない。キリストの贖(あがな)いの恵みに触れることのない葬儀であっても、キリスト教葬儀は素晴らしいものになる。
しかし、死を目前にして横たわるお父様に手を置き、「主ご自身が憐れみをもって福音を解き明かし、神の子どもとして天の御国に導いてくださるように」と、ご家族と共に祈った私の内には、お父様はきっと天国に迎えられたに違いないという思いが満ちていた。
召された方が天国に迎えられたかどうかは誰にも分からない。「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」という聖書の言葉は真実だが、信仰という言葉の意味を取り違えてしまえば、人の勝手な思いが混乱を招く。
しかし、神様の導きに沿って、弱さの極致におられる方やそのご家族に寄り添うなら、ご家族と共に、天国を求める思いは強くなってくるだろう。召された家族が天国に迎えられた保証はなくても、天国での再会を期待して待ち望むことはできる。
牧師は、葬儀の場において、ご家族の思いを束ね、共に心の貧しい者となり、「天の御国」を慕い求める者として、司式を務めさせていただきたいものである。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイの福音書5章3節)
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