仏教式の葬儀や法要は、亡くなった方を極楽浄土に送ることを主眼とし、読経を中心とした昔ながらの儀式の形が延々と受け継がれている。これらの習慣は、すでに現代社会に合わないものも多いが、すでに葬儀文化として定着しているため、変化を生み出すのは容易ではない。
一方、キリスト教葬儀やそれに続く記念会は、亡くなった方のためではなく、残された者たちに慰めと励ましを与えるために行われる。死者はすでに、全能の神様の御手の中にあるので、儀式を通して仕える必要はなく、むしろ遺族に寄り添い、状況に合わせて心温まる内容を準備できる要素を持っている。
当社の牧師派遣の働きにおいても、依頼者家族に寄り添ってくださる先生方は、限られた時間の中で、とても丁寧な対応をしてくださる。依頼者から感謝の言葉が数多く寄せられ、大変励まされている。
葬儀や記念会の中で、故人の足跡を丹念に振り返ってくださるだけでなく、参列者に未信者が多いときには、特別なプログラムを準備してくださり、賛美歌以外の曲を選んで共に歌ってくださることもある。
さらに、葬儀や記念会だけでなく、式の前後にも、ご遺族に継続して寄り添ってくださることがある。有り難いことに、ご遺族の中には信仰に導かれ、洗礼を受けられた方もおられる。特に伴侶に先立たれた高齢者が、寂しさの中で信仰を持たれ、主を信じて余生を送られる様子を耳にするのはうれしいことだ。
先日、ご主人に先立たれた高齢のご婦人に寄り添い、老人ホームの一室を借りて記念会を行った。先に信仰を持って召されたご主人の後を追うように、ご婦人は信仰を持たれ、すでに洗礼を受けておられた。
洗礼を受けられたとはいえ、高齢になってから聖書の言葉を理解し、祈る習慣を持つことは容易なことではない。ご自分で教会に集える状況ではないので、記念会の場を借りて、聖書の言葉をお伝えし、天国でご主人と再会する希望を持っていただきたいと願いつつ、司式をさせていただいた。
お元気だった頃のご主人の写真を眺めながら、懐かしい思い出をたどり、ご主人のお好きだった聖句から神様の素晴らしさをお伝えした。しかし、ご婦人は、昔の楽しかった出来事を思い返して、「やっぱり死んだのね・・・」と、寂しそうにひと言つぶやかれた。
「天国で生きておられますよ。また会えますよ」と励ましても、私の言葉では心に届かないようだった。しかし、最後に、式次第に書かせていただいた聖句「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)を紹介させていただいたとき、不思議なことが起こった。
ご自分で、その聖句をゆっくりと声に出して読んでいかれたのである。そして、読み終わって「ほんと、書いてあるわ・・・」と言われ、ほほ笑まれた。内住のイエス様が直接ご婦人に語ってくださっているようだった。
イエス・キリストを信じることによって得られる罪の赦(ゆる)しと永遠の命の約束は、人の思いが揺らいだとしても決して変わることはない。しかし、神様を信頼して生きる信仰生活の習慣は、個人差はあるものの、すぐに身につくわけではない。継続的な聖書の言葉による養いが必要である。
大切な家族を失い、悲しみの中を生きる高齢者に寄り添い、聖書の言葉を届け、共に祈る働きが求められている。キリスト教葬儀の後には、必ずと言っていいほど寄り添うべき高齢者が遺族の中におられるものである。
教会はキリストの体であり、さまざまな角度から人々の弱さに寄り添える人材が用意されている。教会に集えない弱さを抱えた方々に対し、ためらうことなく寄り添うなら、主は、それらの働きを御心に沿って組み合わせ、満天の星のように祝福を広げてくださるに違いない。
「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(Ⅰペテロ3章9節)
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