私たちは、ビジネスをツールに宣教の仕組みを構築することを願い、3年ほど前に株式会社を設立した。宣教が目的とはいえ、当然のことだが、誰も「宣教に来てください」と依頼をしてくる人はいない。当社がサービスとしてうたっている冠婚葬祭や高齢者事業などを入り口として、さまざまな角度で相談が寄せられる。
株式会社の問い合わせという気安さもあるのだろう。様子を伺いながらではあるが、深刻な相談を唐突に寄せられる方が多い。当社の事業内容についての相談から入るのが常であるが、実際にお話を伺う中で、相談を寄せてくださる方の心の叫びが鮮明になるときがある。
昨年、最愛の娘を突然失った父親から葬儀相談が入った。遠い九州からの電話相談だった。彼は、娘がキリスト教に触れていたことを知り、何とかキリスト教式の葬儀を挙げ、キリスト教の墓地に娘を葬りたいと連絡をしてきた。
近親者にクリスチャンのいない彼は、キリスト教の習慣や教会への気遣いの必要性など多くのことを尋ねてきた。私自身あまりなじみのないカトリック教会で葬儀をしたいということもあり、慎重に言葉を選びながらの対応だった。
彼は葬儀の方法や葬儀後の埋葬の仕方を具体的に尋ねてきた。私は、詳細は葬儀司式をお願いするカトリック教会の神父に尋ねるようにお願いしたが、それでも彼は私の意見を聞きたいようだった。
何度目かの電話の時だった。まだ会ったこともない関係ではあったが、それまでかなりの時間を共有し、話しやすくなっていたこともある。彼は自分の娘に対する素直な気持ちを、私に向かって打ち明け始めた。電話の向こうでは泣いていたのかもしれない。彼は、最愛の娘を天国に送るために最善の供養をしたいと叫ぶように訴えたのだ。
確かに残された者たちが死者のために尽くす「供養」という概念はキリスト教の世界にはない。既に最善を与えてくださっている神様のもとに召されたのだから当然ではあるが、長年「供養」を大切にする仏教葬儀文化の中にある未信者の父親にとっては、簡単に扱えることではないのかもしれない。
父親の気持ちを知った私は、葬儀や墓の話を切り上げ、いかに創造主なる神様が、亡くなった娘さんを愛して大切に育んできたかを話し始めた。「神様は、私たちが想像できないほどの大きな愛で娘さんを導いてこられたのですよ。だから、召してくださった神様を信じて、やがて、天国で娘さんに再会することを期待していくことが最善の供養になりますよ」とお伝えした。
電話の向こうで、私の言葉をどのように聞いてくださったかは正直分からない。電話相談の限界はある。しかし、「それは、たいへん分かりやすいことだ。そのようにしたい」とひと言おっしゃってくださった言葉は、正直なお気持ちだったと思う。
その後、その父親からの電話連絡はない。遠方にある株式会社としての役割は終わったのかもしれない。葬儀をしたカトリック教会の神父との良い交わりがあったことだろう。願わくは、娘さんを通して得たキリスト教とのつながりを大切にし、信仰をもって悲しみを乗り越えていっていただきたいものである。
人間にとって「死」は最も大きな敵である。人が生み出したどのような解決策も役に立たない。愛する家族を失い、悲嘆にくれる多くの人々の心の叫びが日本の各地から届けられる。私たちは、このような打ちひしがれた魂に、死に勝利したイエス・キリストの権威をもって、寄り添いたいものである。
「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」(Ⅰコリント15:55~57)
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