「枯れた技術」という言葉をご存じだろうか? 基本的には「古い技術」ということだが、単に古いだけでなく「すでにトラブルが出尽くしていて、そのトラブルも解決され尽くしている」といった意味が強い。
例えば、電気、ガスといったライフラインは、私たちの生活を支える重要なインフラ技術だが、当初は多くの課題を抱えながらも、200年ほどの年月をかけて、安全で使いやすいものになってきた。
自動車エンジンの分野では、ガソリン自動車がそれに当たるように思う。この150年の間で随分と使いやすい製品になってきた。しかし、一般市民がガソリンのような危険な燃料を積んで、自由に走れるようになるまでの道のりは決して平坦ではなかった。
考えてみれば、私たちの生活の中で当たり前のように使っている「枯れた技術」は、長い年月の中で多くの人の知恵が凝縮され、大変使いやすく便利なものが多いが、元をたどれば多くの課題を抱える難しい技術がほとんどである。
課題が多ければ、対策のために知恵が集まり、付随する新しい産業分野が生まれ、経済効果を生み出す要素となる。社会の構造が多くの課題を乗り越える産業によって成り立ってくる。
ところがこれらの「枯れた技術」の抱えるそもそもの課題は、最初から変わっていない。例えば、電気、ガス、そしてガソリンも、それぞれを利用者まで安全に届ける供給設備が必要であることや、燃料は温暖化ガス(CO2)の発生源になっている事実は何も変わっていない。
これらの課題を根本から解決する新技術として水素利用技術が提案されている。水素を輸送しやすい成分(例えばアンモニアや吸蔵合金などの水素貯蔵材料)にして供給し、必要に応じて水素を取り出し、燃料電池によって発電し、水を生成する。新たな課題があるだろうが、「水素社会」の到来によって現在のような複雑な供給設備の課題もCO2問題も一気に解決してしまう可能性がある。
2014年12月にトヨタ自動車がMIRAIという燃料電池車を量産化した。部品の耐圧性能の大幅向上を必要とする水素搭載は、できれば避けたいところだった。しかし、この車が世の中に出たことによって、将来の「水素社会」の実現性が一気に上がったように思う。
水素生成、水素貯蔵、インフラ、燃料電池、水素供給など、あらゆる水素関連の技術開発が大手を振って始まり、成果が報告され、「枯れた技術」が将来「水素技術」に置き換えられる予感が共有され始めている。
今まで電気、ガス、ガソリンをはじめとする石油関連の仕事に携わってこられた方々には、将来を共に考える良い材料となっているだろう。完成された新技術がいきなり導入されると混乱を招くが、将来の「水素社会」を考える同労者として多くの知恵を生み出してくれるに違いない。
私は、トヨタ自動車を定年退職して6年になろうとしている。仕事は技術開発から日本宣教に変わった。モノ作りから人を相手にするようになったことは大きな変化である。しかし、まったく違う仕事の中にも非常によく似た部分がある。
技術の世界に「枯れた技術」があるように、宣教の下地となる日本文化の中にも「枯れた文化」がある。「枯れた文化」によって日本は支えられてきた。しかし、「日本人の心に届くキリスト教文化」は、技術の分野における「水素社会」よりはるかに夢のある将来を私に見せてくれる。
欧米文化の衣を着たキリスト教のままでは、日本人の心に届かないだろう。日本人の心に届けるための工夫が必要である。
どれだけの時間を要するか分からない。しかし、「枯れた文化」に携わる多くの日本人と共に、新しい革袋となるキリスト教文化を求めていきたいと切に願っている。日本の一般の家庭でも、日常的に「主の祈り」がささげられる日がきっとやって来るに違いない。主の御心が日本の地でも行われますように・・・と祈らずにはいられない。
「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイの福音書6章9、10節)
◇