現代病の1つとして、睡眠障害がよく取り上げられる。確かにストレスの多い時代である。私のようなのんきな性格の者でも、時に眠りにくいときがある。
私は今まで眠りにくいときは、その考え方が整理されていないとき、何か頭の中で解決されないまま寝ようとするときに寝つきにくいと思っていた。いくら睡眠環境を良くしても、自分自身の頭の中の整理がまず第一であると思っていた。今もそれに違いない。
しかし、私は今まで睡眠障害を何かしら恐ろしいもののように考えていたことも確かである。単に寝不足であり、翌日取り返したらよいとか、眠たくなるまで寝なければよいとか、寝るということをコントロールする自分でなく、寝るということにコントロールされる自分のようなところがあった。
仕事や雑事で時間がなく、寝不足になっている人は多いと思う。こういう人たちは眠れないのではなく、眠らないのである。寝ようと思えばいつでも寝られる人たちなのである。もちろん、いくら寝ようと思えばいつでも寝られるといっても、こういう生活が長期にわたると、神経が参ってしまい、ついには寝ようと思っても寝られないようになってしまう。
私はこういう、寝ようと思っても寝られない人になってしまうことを恐れるところがあった。そして、今こうして日記を書くことができるけれども、今までは睡眠について書こうとは思わなかった。というのは、はっきりとした確信がなく、こういうことを書くことで、睡眠に対して意識的になり過ぎ、寝つけなくなったりしたら困ると思っていたから、つまり恐れがあったからである。
今私ははっきりと確信を持っている。イエス・キリストは死をも従えることのできるお方である。そのお方が、なぜ睡眠くらいのことをコントロールできないはずがあろうかという確信である。睡眠は人の努力でできるものではない。
「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:15)
◇