人は奇蹟を奇蹟と思わない
昨年の今頃は、腸の手術を終えてぼつぼつ退院という頃であった。退院はしても、肝臓の方は一体どうなるのだろうかと、先のことは全く未知数であった。
病院の先生も悲観的な見方しかしていなかったし、正直今日のように一応「目に見えるところは良くなった」という状態になるとは想像すらしなかった。昨年の今頃、今日の状態になると言われたら、信じられなかっただろうと思う。それほどの飛躍があった。私には奇跡のように思える。
奇跡のように思えたというのが正直な心かもしれない。徐々に進展してきて、好結果に結び付いたので、何となく自然に、科学的に成立したという感じも強い。昨年の今頃から一足跳びに今日に至ったのなら、奇跡という感じが強いと思うが・・・。
しかし、科学的に何となく納得いくということは、何となく奇跡ではないということにもなる。科学的証明と奇跡とは、相入れないのが今日レベルの科学であるからである。
神が奇跡を人間の前で見せれば、何もイエス・キリストの十字架上でのややこしい復活の奇跡など見せなくても済むことではないかと、以前私は考えたことがあった。
しかし、私は今自分自身が振り返ってみて、その方法は良くないと思っている。奇跡を示されても、人間は奇跡を奇跡と信じない。奇跡が神の御手のうちに行われたものということを信じない。人間は根本的に、これほど頑固に神から離れてしまい、自分勝手に生きているのである。
ややこしく、一見煩わしく見える十字架上のキリストの死と復活が、私たちが自主的に神様を選び取る最上の方法である。
「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」(ルカ16:31)
神の奇跡すら自分の思う通りにねじ曲げて考える人間は、外からの力でなく、内よりの力によらねば改まらない。
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