人の中で、瞑想こそ大切
人の集まりに出席しているときなどによく感じることであるが、心が落ち着いていて、静かで、重く、他人のことなどあまり考えたり、煩わされたりしないときがあれば、また逆に、妙に心が騒がしく落ち着かず、人の目や思惑が気になるときがある。
自分なりに明瞭な考えや目的があり、自信があるときだろうかと思うけれども、よく振り返ってみると、必ずしもそうとは限らないようである。
「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し・・・」(ルカの福音書6:45)
「あなたの御手が私を造り、・・・どうか私に、悟りを与えてください」(詩篇119:73)
瞑想(めいそう)は何も、瞑想する部屋で行うとは限らない。日常生活の中で、人の集会の中でも必要なものである。心が常に神様との対話に向いているなら、その心の状態は一種瞑想の状態である。
雑踏の中での静寂は、瞑想によって得られる。誰しも邪魔なことを考えることもできれば、正しいことを考えることもできる。自分と神様との対話によって、自分の心を正しい状態にしてから、神様に考えを与えていただき、悟りを持たねばならない。
「律法の書を、あなたの口から離さず、・・・そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」(ヨシュア記1:8)
瞑想により、御言葉に悟りを得ることができれば、私たちのすることは繁栄すると記されてある。イエス・キリストも、大事の前に常に瞑想し、祈っていたではないか。
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