2種類の信仰
信仰には2種類あって――①神を直接信仰する。②神を信仰するのであるが、イエス・キリストがその間に存在する――の2つである。
①の信仰は非常に単純なもので、旧約聖書に書かれてある人々の信仰は、これに近いのではなかったろうか。
また、よく奇跡のことが出てくるけれども、あまりに奇跡を重視すると奇跡による癒やしが目的になったり、奇跡を行った人を崇拝する個人崇拝になったり、本筋から外れた信仰になってしまいがちである。たとえイエス・キリストが奇跡を行ったとしても、こういう目的になってしまう可能性がある。
②の信仰は、イエス・キリストを仲保者として介さねば成立しない信仰である。この信仰では、イエス・キリストの奇跡は、必要以上に強調する必要がないことが分かる。前述したように、本筋から外れる可能性があるということもあるが、贖(あがな)うということが覆い隠されてしまいがちになる。
私は長い間、イエス・キリストの重要性が理屈の上でしか分からなかったと思う。私たちの全ての罪を贖ってくださったことは分かっていたが、その存在感は、私にとってはあまり強くなかった。ということは実質的には①に近いような信仰であったといえる。
実質的にイエス・キリストが仲介者として必要不可欠なお方であり、真に血肉をもって私に迫ってきたのは、今回入院してからであった。今までと全く違った信仰となった。
とにかく、②の信仰では、奇跡はむしろ邪魔になるということが分かる。
「・・・わたしは・・・罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)
「イエスは深くあわれみ・・・言われた」(マルコ1:41)
しかしイエス・キリストは、あわれみ深いお方であり、この奇跡を時に使わざるを得なかった。
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