人は奇跡を見ても神を信じない
私は今思うだけでも、絶対に奇跡であると思うことが多々ある。本当は最近に起こったことでも何件かある。今私が治療に行っている病院においてもある。私と同じ種類の病気になり、ほとんど同じ時期にかかり、私とほぼ同年齢という人は、治療にいまだ見通しが立たないでいる。
私は昨年11月末に、本当に奇跡的とも思える回復の後、手術を終えることができ、今は術後の治療を行い得ている。あまりの差に、後で振り返ってみると奇跡に違いないと思うのだが、思うだけで一向に実感が湧かない。奇跡だと思う感情が湧かないのである。
なぜ、驚きにも似た感情が湧かないのだろうか。私たちは何でも科学的に考え解釈したり、分析総合する癖がついているのだろうか。奇跡を目の当たりにしても、当然のことのように思えるのは、人間の本来の性質であり、神の配慮であろうか。こんな人間ならば、神がたとえ奇跡を人間に見せても、神を信じないであろう。
奇跡で神を信じないのなら、人間は何をもって神を信じるのだろうか。
聖書では、見ないで信じる者は幸せである、と書いてある。まさにその通りだと思う。イエス・キリストの言われたことを信じることによって、十字架の贖(あがな)いを自分のためのものとして受け入れることのできる人は幸せであると思う。
私のように、それだけでは不足で、イエスのその他の行為や奇跡を助けとして、イエスを受け入れることのできる人もいると思う。しかしいずれにしても、イエスの愛に打たれて、血の通った信仰をしたのだと信じている。
「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(ヨハネ14:8)
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