不完全な者同士どう交わるのか
どんなに良い人でも、どんなに親しい人でも、疎ましく感じるときがあり、どんなに悪い人でも、どんなに疎遠な人でも、好ましく感じることがある。その原因は、当方にあったり、相手にあったりさまざまであろう。またどんな人でも、時とともに変わる。こう考えてみると、人は自分も含めて、安定しておらず、さまよい続けている。まさに、聖書に記されてある通りである。
「何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。風を支配し、風を止めることのできる人はいない」(伝道者の書8:7、8)
人は不純で気まぐれであり、神は純粋で不変である。人に信を置く者は裏切られる。しかし、私たちはこの信を置くことのできない人と共に生きていかなければならない。信を置きたいけれども、置けば必ず裏切られる人と共に生きていかねばならない。聖書には実に明瞭に、この心構えに関する御言葉が多く見られる。
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう」(マタイの福音書5:46)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(ルカの福音書10:27)
これらの心構えは、愛という行為で示されており、明らかなように、見返りを求めた行為ではない。行き着くところは、まさにイエス・キリストの全生涯の中にその答えがある。
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