自由の目的
神様が最初に私たちを造られたのは明らかであり、神様はそれを見て満足された。創造物が非常に良かったということは、神様は善意でもってこれを造られたということだと思う。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)
最優先して人間に与えられた性格は自由であり、それによった責任がこれに伴う。神様が「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」(創世記2:17)と言われたにもかかわらず、「女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えた」(創世記3:6)とあることから分かる。神様は全能の方であるから、命令に背かないような性格を人間に与えておけば、かような背反行為はないはずである。
この神様の性質、属性を垣間見るとき、私たちが罪にまみれて取るに足らない存在であるとか、神様に殺されて当然の存在だとか、無価値の存在だとか考えるのはどうであろうか。
神様は、右に行くにも左へ行くにも、自由なように人間を造られた。罪の道へ行くにも自由に造られた。全ての人間を罪の方向に行かせた。そしてそれをも含めて、神様の計画の中にあった。つまり良しとされた。
肉体を持ってこの世に生存することからして、罪にまみれて価値のないことであれば、神様は何も人間など地上に創造するという煩わしい行為を取らないであろう。罪ありつつも、意味あるからこそ人間を地上に造られたのであろう。
神様の属性、性格は、かようなところから垣間見ることができる。神様は、罪ありながらも私たちが「自分の意思で神様を選ぶ」ということを望んでおられる。神様が私たちの意思を働かせてくれて、私たちが自主的に神様を選ぶ、罪の道を排除して、神様に従う道を選ぶことが、神様の一貫して望んでおられることであると思う。
「このようにして、ふたりの目は開かれ、・・・」(創世記3:7)
神様は、地上生活も、罪ある身も、全て無意味であるとは思っておられない。ただ、正しい方向に進んでほしいと思っておられる。
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