マンネリ化しない工夫
露天風呂に入って、濃紺の空を見るともなしに見ていた。何と感動を与える色であろう。何と感動を与えてくれる空間であろうと思った。
私はなぜか昔から、濃紺色が好きであった。でも私が感動を覚えていたのは、表面的な色とか空間とかであり、それ以上のものではなかった。私が見ているのは、正に宇宙であり、どこまでも続く大宇宙である。私が眺めているのは、無限を眺めているのである。
本来なら眼前に無限を見せられたら感無量になるに違いない。が、私たち人類は、たまたま初めに世に出たときから無限と直面しているので、何の感動も疑問も感じない。ただ眼前の色や状況に反応するだけである。
何もこんなに大げさなことを持ち出さなくとも、私たちは何でもすぐ慣れてしまい、飽きてしまい、当たり前のこととなって何の感動も覚えなくなる。外国旅行、飛行機旅、美しい夕日、引っ越しした新居等々、度重なるうちに飽いてきたり、日がたつにつれて、何の感動も覚えなくなってしまう。どんなに素晴らしいことでも、人間は慣れる、そのうちに飽きる、見ていても見えなくなる。感動も感謝も希薄になってくるという性格があるように思える。
これは、私は信仰に関しても同様のことが言えると思う。聖書を読んだり、聞いたり、研究したり、暗唱したり、瞑想したりするのはよいが、工夫しないと必ず無感動になってくると思う。今私は、まだ無感動になっていないが、自分なりの工夫をして、いつまでも感動を持ち続けたいと思う。
私は、その1つとして、日記を書き続けようと思っている(今書いていること)。これは、肉なる私が疑問に思ったことを、霊なる神様に問い掛ける作業である。本当は霊なる私が、霊なる神様の言われることに従い続ければ一番良いのだが(御言葉をその通り実践する)、私にはすぐにマンネリ化しそうなので、今は無理。
「銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、・・・神の知識を見いだそう」(箴言2:4、5)
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