初めの人間の属性
偏在性ある神様は、何も地球上の人類のみを相手にしておられるのではない。他のプラネット上の私たちの知らぬ生き物にも、他のギャラクシーに存在するであろう私たちの知らぬ何かにも、力を及ぼしているに違いない。
神の属性である主権、偏在性、全知全能性、永遠不滅性等々も、人類がその知性の及ぶ限りで分かり得たもので、他のプラネットの何かにも適応できるか否かは、人間には到底分からない。神様は、地球に住む人間にとって、最上の属性を垣間見させてくださったにすぎないと思う。
その神様が、私たち地球に住む人間に、初めに与えてくださったのは何であろうか。知識でも知恵でもなく、自由意思であった。その他は、本当に純真無垢であった。神様はこれをまず良しとされたのである。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。…それは非常に良かった」(創世記1:31)
「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えた…」(創世記3:6)
しかし神様は、善悪の知識を人間に自由意思でもって獲得するようにされた。非常に回りくどいように思えるが、善のみを人間に植え付けるのではない方法をとられた。経験的に、善か悪かを獲得するようにされた。善とは、神様に従うこと、悪とは、蛇(サタン)に従うことである。
神様は、神様に従うこと以上に自主的に、自由にということを大切にしておられる。自由に神様に従うのでなければ喜ばれない。創世記からイエス・キリストの来臨まで、全てのエピソードは、この自主的に神に従うか否かの問い掛けとも言える。初めに自由、自主でなく、善のみを与えてくださっていたら、戦争も悪行もないのに、と思うのは、人間の理解の範囲で、神様にはそういう考えは不完全なのであろう。
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