御言葉の吟味、御言葉で吟味
何か問題があったとき、疑問を持ったとき、方針が立たないとき、迷っているときなど、自分では手に負えないときに祈り、聖書を読んだりする。聖書の御言葉のうちに、悟りのような光を見いだせたときは幸いである。
聖書の御言葉をいろいろ調べるときは、私の場合、大体メッセージを聞いたとき、何らかのテキスト、何らかの聖書関連の本などを通して、疑問を持ったり確認しようと思ったり、もっと深く知りたいと思ったりして、これらの外からの情報知識と御言葉を符合し、調べる。
外からの知識は、大体違った角度から御言葉を見ている場合が多いので、本当にいろいろ考えさせられる。よくよく考えて、御言葉の言わんとすることと同じことを言っているのだということが分かる。この作業は、御言葉にも多方面から光を当てることになるので、御言葉を深く知るにも良いと思う。
「ここのユダヤ人は、・・・非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒の働き17:11)
しかし、私たちは聖書学者ではない。調べるばかりで、実際この世に生きている人々の間で、それを生かさないと意味がない。本当に自分が感じたことや考えたこと、疑問に思ったことは、聖書の御言葉に照らし合わせてどうなのか、調べてみないといけない。
この世の中では、他人の考えで生きているのではなく、自分の考えで生きているのであるから、この作業も大切であると思う。自分が何気なく言ったり、行ったりすることが、聖書の御言葉から外れていないか、否か、御言葉と照合して吟味してみなければならない。
私はこの日記で、俗っぽいことばかり取り上げているけれども、その1つの目的は、以上の理由からである。
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)
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