公にされた祈りの課題
私は昨年の1月にがんであることを宣告されたときに、真っ先に思ったのは、公にしてほしいと思ったことだ。教会の週報に載せてもらって、なるべく多くの人に知ってもらい、祈ってほしいと思った。次の週報に、祈りの課題として載せるのに間に合うと聞いたときは、本当にうれしく、肩の荷がスッと軽くなったのを覚えている。
後で知ったことであるが、人によっては公にするのを躊躇(ためら)う人もいるらしい。いろんな事情があるのだろうが、一部の教会の役員と牧師だけに祈ってもらい、他の信者には秘密にしておくというやり方である。
確かに公にしてしまうと、煩わしいときがあるかもしれないし、あまりよく知らない人から風邪でも引いたときのように軽く扱われたりすると、良い感じがしないかもしれない。しかし、そういうことを差し引いてなお、素晴らしい交わりができるのも確かである。
今まで全く知らなかった人からの温かい励ましや祈りは、その人たちが、病苦や苦痛を経験してきた人たちがほとんどであることを、後で知った。苦難を通して神様に支えられてきた人たちであり、一人一人その苦難も異なるので、励ましや祈りも非常に個性色に溢れ、人間味のあるものだが、御言葉に温かさを感じさせてくれる。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、・・・」(ヨハネの福音書15:12)
公にしてしまうと秘密にする必要がないので、不要なプレッシャーと戦わなくてもよいから気が楽である。秘密にしていれば、隠している相手に苦しいのを平安な顔をして隠していなければならず、これは大変な重荷であるように思えるが・・・。人によっては重荷の感じ方も異なるのであろう。
それに、私たち一人一人は祭司なのであり、神様と直接交わることができる。信者の中にも非常に信仰深い人もいれば、そうでない人もいる。役員の人たちとて同様であるという思いが私にはある。とにかく、信仰は個人のものである。
「・・・あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです」(マタイの福音書23:8)
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