男女の愛の相違
昨日テレビを見ていると、病気を治すために、雪深く積もる山奥の湯治場に来ている多くの年配の人々が映っていた。そのうちの1人は、夫は健康であるが、妻ががんに侵されているため湯治に来ているとのことであった。
湯治場は、岩盤浴のように温かい山肌の上に寝て、その上にシートを掛け、1時間くらい体を温め、毒素を抜くというものである。岩盤浴のできる場所は、テント小屋のようになっており、20人ぐらい入ることができる。
外は雪降る厳寒の山中である。この夫婦は旅館から歩いて5分ぐらいのこの湯治場に来たのだったが、妻が岩盤浴をして体を温め寝ている間、夫はそのテントの外へ傘を差して出て、じっと待っていた。
インタビュアーが、「なぜこんな寒いところで待っているのか」と聞くと、彼はこらえていたものがたまらず出てきたように泣き出し、言葉にならなかった。妻の弱った姿を見るに忍ばれず、妻の前で平気を装っていたものがこみ上げてきた。
今まで連れ添って生きてきて、いとおしさや切なさや複雑な思いが、どうすることもできない夫に襲いかかってきて、何の力もない子どものように泣き崩れていた。私たちの年代の者は、この夫の心境は痛いほどよく分かる。夫は妻を何もかも投げ出してもよいから被ってやりたいと思う気になるのである。
しかし私は、この時ふと気付いた。もし夫が病気で妻が看護するのなら、この妻は上記の夫とは違った態度をとるだろうと思った。悲しむことは悲しんでも、割合感情的にならずに、事を運ぶように思える。いろいろな人の言うのを聞いても、少なくとも上記の夫のようではない。理性的で合理的でさえあるように思える。
男と女とでは生理的に異なった愛があり、聖書はそれを踏まえた上で、“夫たちよ・・・自分の妻を愛しなさい”“妻たちよ・・・自分の夫に従いなさい”(エペソ5:25、22)と記されているのかもしれない。
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